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ミシェル・ウエルベック『服従』 幸福のためになぜ自由を諦める必要があるか

書評

眠れないので小説について書こう。

ウエルベックの小説全般に対するネタバレへの配慮はないから、もしも読みたいと思っていて、ネタばらしされるのが嫌なら、引き返していただきたい。

 

 

ミシェル・ウエルベック『服従』を読んだ。

彼は恐らく世界的に政治的な影響力を持ちうる作家なんだが、最初の小説『闘争領域の拡大』から殆ど問題は変わっていない。

 故にこのデビュー作について簡単に要約しておくことは彼の問題意識を理解する役に立つ。

この小説のタイトルが意味しているのは、資本主義社会が生まれ、あらゆる自由(性的タブーを含めたあらゆるタブーの喪失、社会階級がなくなり、同性愛者や女性が自由を得たこと)が増加した結果、金だけでなく恋愛も激しい競争に巻き込まれるようになったことの哀しみを、一人の全く女性に愛されない、女性に愛されたくてたまらない人間を観察することによって表現している。

そして彼は『闘争領域の拡大』でそれを提言した後は、『素粒子』『ランサローテ島』『ある島の可能性』『地図と領土』のいずれでも、その拡大してしまった闘争領域に対抗する術を見出そうとしている。

勿論最新作『服従』も例外ではない。

恐らく最も異なっている点は、『服従』では現実的にありえるシナリオで、政治による方法で(今までの作品では、科学や芸術によるものだった)愛を手に入れる方法について語っていることだ。そしてそれは、少なからず『地図と領土』で描いた最後の光景を反映しているように思う。

 

 さて、『服従』について説明していこう。

この小説を要約するなら、男女同権が生み出した悲惨を見て、若い恋人を失ったユイスマンスを専門とする44歳の文学部教授が、自国フランスがイスラム政権によって統治され、大きな変革が起きるのを眺めてユイスマンスが最後に信仰の道へと進んだ理由を理解し、自らもイスラム教徒となる、といったものだ。

 ユイスマンスの最も有名な小説は『さかしま』で、とある金持ちが自分の家を人工楽園にし、徹底して繊細な快楽を求めるも神経を磨耗し、社会復帰を目指すも結局何も起こらない、という奇妙な小説だ。 この小説は澁澤龍彦が訳していて、おそらくは最も有名だ。

この作品以降、彼はデカダンス的な立場を変え、カトリックへと帰依する。しかし晩年の作品については、余り有名ではないようだし、『服従』の中の主人公、フランソワも、どうにも退屈で理解出来ない、としている。

 しかしフランソワは最初から、このカトリックへの帰依について考えている。彼はユイスマンスの専門家であるが、最後の信仰については余り同意できないでいる。

 フランソワは文学部博士課程まで進み、95%はそれをなんにも生かさず、5%が文学部に職を得る不毛な過程と自重するその中で、優れた博士論文を書き、大学で順当に出世する。

そして職を得てからは、学生と付き合い、1年程度で別れる。多分恋愛工学者あたりにとっては殆ど理想的な生活と言えるんじゃないかと思うが、彼はプライベートに殆ど友人を持たず、基本的に孤独である。

 

最初の方に、フランソワはフランスの恋愛の基本的なモデルについて説明し、それが実際にはどのような結果をもたらすかに着いて書いている。引用してみよう。

 

ぼくの若者時代を通じて最上位にあった恋愛モデルによると(そして現在までそういう事情がはっきり変わったと思わせるものは何もない)若者は、ティーンエイジの短い性的な彷徨時代の後で、排他的な恋愛関係に入ると考えられ、それは厳格に一対一の関係で、そのつがいでの活動は性交だけではなく社会的な場でも(日々の外出、週末、ヴァカンス)保たれなければならないと考えられていた。これらの交際は決定的ではなかったものの、本当の恋愛について学ぶ機会と見なされていて、それは言ってみれば「インターンシップ」だった(その頃、ビジネスの世界では、最初の雇用に先んじてこれを実践することが一般化しつつあった)。その期間(ぼくの場合は一年で、これはだいたいまともな方に入ると考えられるだろう)と相手の数(十人から二十人までならまあ穏当なところ)のそれぞれに異なる恋愛関係が続いた後に、クライマックスとしての、最後の、結婚に至る決定的な関係にたどり着くと考えられていて、それは、出産と家族の成立をもたらすのだった。

 

しかしこれは現実にはまるで意味がなく、彼は40過ぎの元ガールフレンドと出会ったときに、それがどのような帰結をもたらすかを見る。

 

これから一、二年もすれば彼女は母親になることを諦め、まだ完全には消え去っていない性欲が彼女を若い男漁りに駆り立て、ぼくが若い頃の言い回しで言えば、「クーガー女子*1、」になり、それは何年か、よくすれば何十年か続き、そして身体に致命的なレベルで商品価値がなくなれば、決定的な孤独におちいるだろう。

 

レビューを読む限り、そして解説を読む限り、まるでフランソワは自由という発想をはじめ持っていて、イスラム政権によって変えたかのように思えるのだが、それ以前から彼は若いガールフレンド、ミリアムに対して家父長性の復権について問われたとき、こんなふうに答える。

「ぼくは何にも同意してないよ、知ってるじゃないか。でも家父長制は少なくとも存在するだけの価値はあると思う。つまり社会の仕組みとしては、家族がいて子どもがいて、皆がほぼ同じ図式を反復し、そうやって慣性の法則で回って来たんじゃないか。今は十分に子どもがいないからお先真っ暗だけどね」

 

それにミリアムはこう答える。

「たとえば、家父長制についてのあなたの考えが正しかったとするじゃない。それだけが現実的なプランだったとする。でも、わたしは高等教育も受けて、自分を独立した一個人と考えるのに慣れているし、男性同様考えたり決定したりする能力があると思ってる。だとすると、わたしはどうなるの? 捨てられても構わない女だって言うわけ?」

 

 それから政治の動きが描写され、移民敗訴の極右政党が第一政権になった結果として、イスラム同胞党と保守党そして左翼の党が連合し、イスラム同胞党の党首をトップに仕立てて政権を取る。これによって大学には大きな変化が起こる。この結果としてフランソワの恋人、ミリアムはイスラエルへと帰ることになる(イスラムユダヤ排斥を恐れたこと、そして女性への教育をイスラーム同胞党は禁じたために)

 

そして彼はユイスマンスと同じように、修道院に入り余生を過ごそうというアイデアを実行に移すが、一本の煙草を吸えないがために挫折する。

(それから、おそらくはキリスト教の教えが彼にとってはまるでリアリティを持たなかったこと)

 

パリに戻ると、女性教員が一切いなくなり、そしてイスラム教徒以外の教員がいなくなった元勤め先の大学から教員をやらないかと誘いを受ける。その条件は、イスラム教徒になること。

 

新学長のルディジェから教員に戻ることの熱心な誘いを受ける。そこでこの小説のタイトル、服従の意味が明らかになる。

O嬢の物語』にあるのは、服従です。人間の絶対的な幸福が服従にあるということは、それ以前にこれだけの力を持って表明されたことがなかった。それはすべてを反転させる思想なのです。わたしはこの考えをわたしと同じ宗教を信じる人たちに言ったことはありませんでした。冒涜的だと捉えられるだろうと思ったからですが、とにかくわたしにとっては、『O嬢の物語』に描かれているように、女性が男性に完全に服従することと、イスラームが目的としているように、人間が神に服従することの間には関係があるのです。お分かりですか。イスラームは世界を受け入れた。そして、世界をその全体において、ニーチェが語るように『あるがままに』受け入れるのです。仏教の見解では世界は『苦』、すなわち不適当であり苦悩の世界です。キリスト教自身もこの点に関しては身長です。悪魔は自分自身を『この世界の王子』だと表明しなかったでしょうか。イスラームにとっては、反対に神による創世は完全であり、それは完全な傑作なのです。コーランは神を称える神秘主義的で偉大な詩そのものなのです。創造主への称賛、その法への服従です。

 

 

ちょっと脇道にそれるが、”知識人”への皮肉がある。これは日本でも同じように思える。

二十世紀にはあれほど多くの知識人が、スターリン毛沢東ポル・ポトを支持したが、彼らはそれを非難されずに来た。フランスではそもそも責任という観念は、知識人には無縁なのだった。

 

しかしなぜイスラム教なのだろうか。ユイスマンスが帰依したカトリックではなぜ駄目だったのか、それはルディジェの論文によって明らかにされる。

カトリックの教会は、進歩主義者たちに媚び、おべっかを使い甘やかすことで、恥ずべきことに、頽廃的な社会の傾向に対抗不可能になり、同性愛者の結婚や、妊娠中絶や女性の就労の権利をきっぱりとそして厳格に否定できなくなったのだ。はっきりとさせておかなければならない。吐き気を催すような解体がここまで進んでしまった西欧の社会は、自分で自分を救う状態にはもうないのだ。古代ローマが五世紀に自らを救えなかったのと同じだ。移民人口が大量に増え、それらの移民がまだ自然のヒエラルキー、女性の服従や先祖崇拝の色濃い伝統的な文化の影響を受けていることは、ヨーロッパの道徳及び家族をリセットする歴史的なチャンスであり、この旧大陸に新しい黄金期をもたらす機運なのだ。これらの移民は時にはキリスト教徒であったが、その多くがイスラーム教徒であったことは認めなければならないだろう。

 

 

イスラム教政権によって劇的な変化が起きてから、彼はようやく、日常的に高ぶらされていた感情を沈めることができる。要するに性的衝動が和らぎ、執筆に集中できるようになる。

 

 

しかし最後のルディジェの言葉は、何処か皮肉めいている。奇妙な因果がめぐって、知識人を肯定するのだ。

 

フランソワは未来の結婚相手について、ルディジェに対して質問をする。イスラム教との結婚相手を見つけることについて。彼は家庭を持ちたいと思っているのだ。

 

 

(前略)本当に選びたいと思っているのですか?」

「それについては……ええ。そう思います」

「それは幻想ではないでしょうか。あらゆる男性が、選ばなければならない状況に置かれたら、まったく同じ選択をします。それが多くの文明、そしてイスラーム文明において仲人を作り出してきた理由です。この職業は大変重要で、多くの経験を積んだ賢い女性だけに限られた職業です。彼女たちは無論、女性として、裸の若い女性たちを見て、一種の価値評価をし、各人の身体と、未来の夫の社会的地位とを関係づけます。あなたのケースについて言えば、あなたがご不満に思うことはないと思いますよ……」

ぼくは黙った。本当のことを言うと、飽いた口がふさがらなかったのだ。

ルディジェは話を続けた。

「付け加えるならば、人間という種がすこしばかり発展する可能性があるとすれば、それは女性の知的柔軟性に多くを負っているのです。男性は厳格な意味で変りようがありません。言語哲学者であれ、数学者、数列音楽の作曲者であれ、男は常に、抗いがたく、純粋に身体的な点から再生産の選択を行い、その評価基準は何千年も前から変わりません。最初は、女性たちも同じように、男性の身体的長所だけに魅了されてきました。しかし、適切な教育を受ければ彼女たちは、男性の本質はそこにはないと納得するようになるのです。まず、金持ちの男性に魅了されるように仕向けることができます。大体、金持ちになるためには、平均的な男性よりも知性と機転が必要なのですから、ある程度まで、大学教授には高い性的価値があると説得することもできるのです。……」彼はここで最高の笑顔を向けたので、ぼくは一瞬、彼が皮肉を言っているのだと思ったが、実際にはそうではないだろう、そうは思えなかった。

「そして、大学教授に高い勤務条件を与えれば、物事は簡単になります」

彼はそう結論づけた。

 

 

 

そしてフランソワはイスラム教徒になる儀式を受け、第二の人生への歩みに確信を持つ。

 

 

この小説はしかしながら、幾つか皮肉を含んでいる。

1.そもそもイスラム政権による女性の教育からの排斥がなければ、ミリアムはフランソワの元から離れていくことはなかった。

 

2.彼は結局、イスラームへと帰依することで、ユイスマンスの思想と決別し、知的活動が終わると考える。つまり知識人であることが高い性的魅力になり、家庭を築いたその時には、彼は知的活動を終えてしまっているのだ。

 

恐らくフランソワに取っては好ましいのだろう。彼は結局、何人かの妻を得て、満足の行く家庭を築き、十分な収入のもとで幸せに第二の人生を過ごす。そしてそれは彼の考えの変転とも思えない。フランソワは家父長制に同意してないと(何にも同意していないと)言うけれども完全に肯定しているし、幸福な家庭を築く方法について、完全に途方にくれている。何しろイスラム化する前の彼の周囲には、ドン・ファンはいるけれど、家庭を築いた人は一人しかおらず、そしてその家庭は相当に悲惨なものなのだ(家庭の悲惨さは、つまるところ外面を良くすることが求められるが故に家庭内では疲れきった姿しか見せることができないことによる)唯一の例外は、フランソワの父で、離婚してから内縁の妻と幸せな家庭を築き、狩猟に勤しむ生活をする。仲間たちに囲まれ、自分の子供時代に見ていた孤独で退屈な父から想像はできないような幸福な生活をしたらしいのだと、想像される。

 

この物語は幾つかの矛盾に目をつぶれば、幸福な家庭を得たいという希望を、強い刺激によって紛らわせていた男が、最終的にイスラームの教えに従って結実させるということになるのだろうか。

『選択の科学』という本がある。この著者はシーク教徒であって、その教義に従い、お見合いに従って結婚相手を決めており、それに完全に満足しているし、自分の選択の理論(多すぎる選択肢は、決めることを妨げるし、良い選択を阻む)を肯定すると言っていた。それから、マーティン・セリグマンの著作によれば、結婚も宗教も幸福に関連していると考えられる。

 

 ウエルベックは最初から、自由というのは人間にとってイマイチなアイデアだと描いていた。それは最高の勝ち組、男性的魅力と金と知性と地位に恵まれた人間にとってもそうなのだ。結局、多くのものは老いとともに失われていくし、自由競争のもとでは老いることは価値を産まないからだ。

 

 幸福に暮らすことを考えれば、自由は恐らく制限される必要がある。社会疫学『不平等は健康を損なう』やポジティブ心理学『世界で一つだけの幸せ』や社会心理学『選択の科学』、そして自由に生きたビートニク作家たちや60年代のロックスターについて調べれば調べるほどに、そういう結論が僕には生まれる。山形浩生の『たかがバロウズ本』はその最も顕著な例だ。 

その結論がイスラム教というのは些か唐突に思えるが、多くの新興宗教は市場原理に染まっている『現代オカルトの根源』し、『ある島の可能性』で描かれたように、自由を教義に掲げた場合、却って教祖の権力が強まってしまう。だからこそ、神への服従こそが重要なのだというウエルベックの考察は相当に説得力がある。

 僕はそれに説得力のある反論を行うことができない。

無制限な自由と市場原理が生み出すものに、まるで良いビジョンを描くことができない。それは制限される必要があり、最も強力な制限手段は宗教なのだ。

*1:若い男性を好む40歳以上の女性