Walk slowly
まっすぐと、道があって雪が降っている。僕は歩く。どこに向かっているのだろうか。ここは夢の中みたいだ。肌の質感は妙に柔らかい。風はほとんど吹いていない。冷たい雪が微かに顔にかかるけれど、それさえも快い。
僕は目的を忘れた。目的らしきものがあったことは覚えている。妖精にたぶらかされたんだろうか、そんな非現実的なことを考えるのが一番まっとうな気がする。
旅人らしき人影が、随分と遠くから手を振っている。だけどそれが僕の方を向いているのか、誰かを見送っているのかはわからない。随分とゆったりしているように思える。彼の姿形は影にしかみえない。だけどはっきりとした影だ。彼は煙草をくわえ、紫煙をくゆらす。それさえも影に見える。無彩色の世界。
彼に話しかけてみようとして、少し足が早くなる。ここがいったいどこなのか、どこに向かうのか、一体何の場所なのか、それから、どうして僕がこんなに落ち着いているのか。全てが不可解でありながら僕は現実を柔和に受け止めていた。踏みしめている場所がどこかにつながる道だとはっきりわかるのは、ここに沢山の足あとがあるからなのか、固く踏みしめられた雪を信頼しているからなのか。
彼との距離が近くなって、思わず走りだそうとすると、その影は手をかざして、僕に落ち着くように促す。僕は速度を落として、歩いてることを自分に忘れさせようとする。足の微かな痺れが心臓に活力を呼び込んでくる。僕は声を出せなくなっている事に気づいた。呼びかけようとして、頭のなかの声は現実の音になることはなかった。
だからここはこんなにも静かなんだ。
影は近づいても影のままだった。彼に触れることはできなかった。彼は影だけで、言葉も失っていた。少しずつ影が薄くなっているのがわかった。僕は彼ののっぺらぼうの顔を見つめる。彼は頷くと、ゆっくりと歩みを揃えて歩きはじめる。そのテンポは奇妙なほどに整っている。まるで僕たちは一人の人間の右足と左足のように、気まぐれなゆらぎを持ちながらもはっきりとした一つの意思を持って進んでいく。
ここではない、どこかへ。
天国だろうか、だとしたらもう少し温かいはずだし、僕は死んだことを覚えていない。引き返したら元の場所に戻れるのだろうか。だとして、こんな考えが浮かんだ。
最後まで辿り着けば、元の場所に戻れるかもしれない。
それはひとつの空想だった。そんな思念は僕の中にはなくて、影が持っていたものなのかもしれなかった。影はどんどん薄くなっていった。人はどこにもいなかった。
誰もいない、音のしない雪原を黙々と歩いていく。少しずつ雪を踏みしめる音も遠ざかっていく。疲れることもない。お腹が空くこともない。僕は少しずつ失いながら全てを歩くことに注ぎ込んでいる。
影はついに立ち止まる。もうほとんど灰色の空と見分けがつかなかった。彼は最後に、最初であった頃と同じように、手を降って消えた。
さよなら、影。
一人で黙々と歩いていく。どんどん僕は失っていく。歩みが遅くなっていく。歩くことなんて忘れてしまいそうだ。そして僕のポケットに煙草が入っていることに気づく。
後ろを振り向くと、はっと気づいたように立ち止まる旅人の顔が見える。僕は彼を安心させてやろうと、手を大きく降る。そして一本煙草を吸う。彼は走りだそうとする。
最後の時間を無駄にしちゃダメだ。ゆっくり楽しまなくちゃ、そう思って僕は両手を掲げ、彼を制止する。
くりかえしの皮肉と、終わりの到来。