読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

I'm only sleeping

日記 雑記 思いつき ついったー https://twitter.com/1dgwa

特別な音楽が言葉を反射させる

 サカナクションのナイトフィッシングイズグッドとか、真空メロウの魔9とか、burger nudsのam4:00とか、神聖かまってちゃんの23才の夏休みとか、フィッシュマンズのナイトクルージングみたいに、大学のはじめの頃になんども聞いて、未だにその気分を記録しているような曲がある。

 

 楽しいとされていることをやっていても、あまり楽しめない時期があった。楽しみは基本的に一人ぼっちのもので、それはなんとなく自分の中で後ろめたいものだった。facebookとかmixiみたいなSNSは基本的に個人的な喜びには向いていなくて、それにどこかに行ったとしても写真を取るのは面倒だし、覚えておいて後で文章にするほうが楽しめたりするのだけど、一般的な喜びとは別物に思えて、何か正しいことをしていないような気がした。セネカの本がとてもしっくりときたのは、内省して、あれこれと考えるのが最も尊いのだと規定しているところにある。もちろん、人と話したりすることが楽しい時もあるのだけど、それは全体に占める割合としてはとても小さい。

 

 それを認めるのにはとても時間がかかった。

 

 なんとなくしっくり来なかった時期に聞いた曲というのはなんだか特別な感触を持っている。思い出すまでそんなこと考えもしないんだけど、あれこれといろいろな感情を引っ張り出してきたりするから、あんまり普段に聞くわけにはいかない。だけど、なんとなく手持ち無沙汰な夜更かしした時なんかにフッと聞いてしまう。

それは後悔とも違うんだけど、そういうことがあったって、流すわけにもいかない。

どうしようもなく言葉が足りなかったし、何だかすべてが不十分だった。同じミュージシャンの、名曲と言われている他の曲を聞いても、なんか違うと思うし、アルバムを聞くことでしばらく興味を失ってしまうことがある。

 

 なにか主張したいことがあるわけじゃないんだ。ただ、なんとなくそうだってこと。否応なく時間は流れていく。過去をうまく処理できているつもりではいるけど、あちこち継ぎ接ぎ修理されてるし、それが完全に治ったわけではなくて、未だに傷が見えるってこともわかる。

 

 一番引っかかっているのは、例えば人の死とか、留年とか、そういう出来事じゃなくて、どちらかといえば自分自身が行動したかったのにできなかったことだったりする。権威にブルったりしがみついたりしていたことだったりする。じゃあ権威を無視できるのかって言うと、全然そんなことはない。ただ後悔するだけだ。次の行動に活かせる、なんてことはない。

 

 タレブはアンチフラジャイルの中で、フラジャイルの倫理について書いている。彼は膨大な損害を世界に与えた、証券会社の社員たちが相変わらず同じ道具を使い、同じようなものを売り、同じようなリスク管理手法を用いて、相変わらず経済を壊れやすくしていることを引き合いにして、職業こそが倫理を規定するのだという。それに従うならば、自分の無力感というのは、おそらくは状況依存性だ。封建的になるのはとても簡単だ。それは僕らや類人猿に刻み込まれたコードで、特別な環境や前提条件や教育においてのみ、権力を意図的に弱め、最適な選択肢を選ぶことを検討することができる。

 

 政治面においては、基本的に人間は類人猿と大差ないのだ。

 

 旧日本軍において、上官は絶対的だと思われがちだけど、完全に上官を掌握し、軍隊を支配した例が存在する。ゆきゆきて、神軍の主人公、奥崎謙三がそうだ。彼はどう考えても常軌を逸しているし、親しくなりたいと思える人物ではないけど、好ましくない人物の好ましい性質というのが見えたりもする。

 

 人はどう考えても自由じゃないのに自由の見せかけを保とうとするとか、自由を徹底して求めた人間が最後にヘロインに支配されることを望むとか、人間の思考にはいろいろなバグがあって、広告はそれを利用し、教育はそれを助長するとか…。

 

 僕がここまであれこれ書いていたことは、結局単純な一つの判断に起因している。それは、つまり何かをするべきときに動き出せるかどうかということなのだ。小説を書いているときにも、どうしようもなく先に進めなくなる時があって、その時にエイヤッと無理やりに書き進めることがある。それは小説を書き進めるために必要なことなのだと思う。カミュがシーシュポスの神話で、実存主義哲学者たちの奇妙な飛躍について述べていたけど、どこかで飛び越える事が必要なのだ。

 

 こんな逸話がある。

ある統計学者が、株の値動きを予測する機械を作った。それに従って投資をした場合をシミュレートすると、百発百中だった。だけど実際の金を使って投資をするのは、現実であり、彼は現金を使って投資することはついにできなかった。

 

 この逸話は大切なことを書いている。実際の物事は別なのだ。アンチフラジャイルにも似たような逸話が引用されている。意思決定理論の大家が、自分がハーバード大学に移るべきか、今いる大学に残るべきかを悩んでいた。友人が、君の意思決定理論を使えばどうだといったところ、これは本当に大切な問題なのだと叱りつけられたのだ。

 

 僕はあれやこれやの知識を持っていて、本を読むことが好きで、だけどそれが何の役にも立たないことが多い。こうすればいいと頭の中であれこれシミュレートするのだけど、それは殆どシミュレートで終わる。実際に行動に移ることはない。かなりの量、誤った予測をしていることもある。それは認識している。無意識にその不確実さを理解してのことかもしれない。単なる臆病なのかもしれない。いずれにせよ、本当に必要な決断なんて、半年に一度訪れるかどうかってところだろう。そこで何かをできるか、口ごもるか、やめようって周りの空気や自分の意識を超えられるかって問題がある。

 

 アドバイサーに徹するという手がある。つまり、自分では決断せず、人に意見を言うということだ。だけどそういう分離というのは卑怯なのだ、きっと。古代のアドバイサーは、自分の発言に責任を持っていた。失敗すればしばしば命を失った。だけど普段僕らがやるアドバイスや何やらは、基本的に責任関係を持たない。最悪なのはアドバイスと自己責任の組み合わせだ。そんな言葉は何の重みも持たない。これはアドバイスのスクリーニングに使える。自分では使わない理論や食事や商品を薦めてくる人間はあまり信用できない。

 

 言葉を自分に反射させるべきなんだろう。