文脈・オプション性・長く生きる
あけましておめでとうございます。
今年の抱負というものほど意味のないものはなくて、だから一応俺はフローの時間を増やすということにして、それを記録だけするということにしたけど、なんだかんだで一度も記録していない。
なるべく読んだことを知らない作家を中心に沢山小説を買った。
年末・正月はあまり考えることもなく過ごした。人と過ごしていると、というか、注意力を途切れさせることがあるのだとわかるだけで、考えるのは難しくなる。その代わりに沢山人と会った。それはそんなに悪いことではないように思う。
最近良く考えるのは会話で自分の考えていることを伝えるためには一定以上の文脈を提供する必要があるし、それを伝えるためには当然ながら時間が必要になる。極度の要約は意味をなさない。だとしても会話に用いれる時間は限られているし…ということだ。
質問はおそらく重要な意味をなしていて、それがないと多分間違った理解になる。そうだとしてもおそらく近い文脈を共有した人であれば大胆な省略が可能になる。
いずれにせよ、それをはじめから理解するのは不可能で、ちょっとずつ修正していくしかなさそうなのだけど。
そういえば筒井康隆は小説を書くときに読者はバカだと思えというアドバイスを貰ったと言っていた。それはおそらく、読者は作者の文脈を理解しない(頭の中に前提として存在するエピソードは作者の頭の中にしかない)ということなのだろう。
新年早々読んだウエルベック『地図と領土』は素晴らしい小説だった。
それからセネカ『生の短さについて』をじっくりと読んだ。
長谷川四郎『鶴』の短編を幾つか読み、吉川英治『三国志』をはじめから読み直した。
いずれにせよ、かっちりと構成された小説はあまり好きではないのだと考えた。しかしウエルベックの小説は奇跡のような構成を持っているし、とても素晴らしい物だった。それ以上に語る言葉はまだ持っていない。
地図と領土の登場人物たちの生活は、惨めだと描写されるが、それこそまさに賢者のものに近いのではないかという気もした。圧倒的な時間をなにもしないで過ごし、人とのかかわりをほとんど持たず、そして大きなことをするのだ。セネカの思い描いた賢者は、哲学(英知)に関する物事を行うとされていたが。
膨大な富というのはそれ自体悪いものではないのだけど、あらゆるものに害がある程度には害があって、それにうまく備えることが大切なのだとセネカは書いていた。
成功は人を壊れやすくする、と書いたのはタレブだった。
失敗に備えるべきなのはだれにでもわかる。だけど幸福が備えるべきものだと考えるのは難しい。しかし幸福になった人間を見ていれば、それが現実認識の歪曲に由来するものである場合が多いことがわかる。
とにかくあれこれ可能性を考えて、脇に置いておくことが必要なんだろう。
それがタレブの言う、オプション性ということなんだと思う。
いずれにせよ、本を読みブログを書き小説を書いて、たまにジムに行き、長い散歩をし、タンパク質の多い食事とランダムな断食をしていくんだと思う。去年の末からはじめたもので、今では習慣に近いものになっている。