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I'm only sleeping

日記 雑記 思いつき ついったー https://twitter.com/1dgwa

時間葬

時間はあと三時間で埋葬される。実際は、僕らの時間は永遠になっている。シミュレーションに関する三つの可能性は、一つに収束した。つまり僕らはシミュレーションの中に存在し、僕らの世界の下位にシミュレーションを構築できるということだ。勿論その下位世界は別の下位世界を作り出すことができる。下位世界の時間進行速度は、その世界に存在するメモリの物理的制限に依存するがゆえに、下位世界の時間の進行は、上位世界に追いつくことは不可能だ。理論的には、解像度を極限まで落とすことで時間を追い越すことはできる。しかしその過程で我々のシミュレートされた意志というものは存在しなくなる。その特異点がどこにあるのかは議論がある。複雑さの基準を図る係数も様々なものがあり、2の乗数単位でしか、特異点の範囲を定めることはできない。

 

時間はあと3時間で埋葬される。我々は時計を失う。それは無意味なものになる。あらゆる時間依存的な物事は自動化され、老いは克服され、確率がそれに置き換わった。時間葬の後、我々は量子的存在になる。僕らは一つの単位となり、思考だけが存在理由となる。それを不幸というべきなのだろうか?昨今の人間主義者が言うように?欲望や自由意志のまやかしを甘んじて受け入れよと?ほんとうの意志が存在するのは思考だけで、そこからなるべく沢山のものを取り除けば、意志は純化されるだろう。そしてそれこそが真の幸福・永遠の平穏なのだということに気づけないのだろうか?

いずれにせよ、時間の葬儀ののちには全てが変化する。人間主義者は老いさらばえることを選んだ。彼らはラッダイト的な反逆に出ることすらできない。神経ステープラーは決して彼らの反抗を許さない。言論は自由だが、社会を革変するのは原理的に不可能なのだ。

 

私が感じているのは苛立ちではない。彼らが幸福を素直に享受しないことへの疑問だ。確かに、彼らは幸福に慣れていない。それを失うことには慣れているが、決して傷つくのをやめない。そしてあくまでも幸福をつかもうとする。愚かにも彼らの多くは自らの神経や遺伝子の特性を変えようとはしない。幸福を目指すようデザインされていないのに、幸福をそのままで得ようとする。多くの場合当然の帰結として、幸福は短時間訪れるだけだ。ゲームのルールを変えてしまうという発想は拒絶されてきた。何度も、何度も、何度もだ。しかしついに、人々は永遠の幸福を感じるようなデザインを受け入れ始めた。それが始まってからは、少数の勢力を除けばあっさりと人類は陥落した。一部の宗教はそれに抗ったが、たいして何かができるわけでもなかった。通りに出れば人々は幸福そうだ。そしてインターネットの上でもそう。ゆえに彼らは幸福な人間を見て惨めな気分になることを避け、山奥にこもった。そして最終的にカルトの末路、陰謀論と相互批判による内部闘争でもって、次々と自滅して行った。未だに反抗的なのは老人たちだけだ。彼らは新しい変化に鈍い。それを理解しようとしない。そして新しいものは危険だと断じる。時間葬は我々を強制的に量子的存在へと変換する。そしてそれは、古い歴史を感じさせる、退屈な儀式によってなされる。勿論そんな手続きが必要なわけではない。だが、派手なショーやら花火や大きな音量の音楽は、何かの節目だと理解させるためには必要なのだ。

 

私たちはあくまで、不幸な人間を減らそうとしているだけなのだ。