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一ヶ月かけて一冊の本を読むということ

ここ一か月ほど、ずっとナシーム・ニコラス・タレブ 『Antifragile』を読んでいた。

その間に何冊か新書やら短編を読んだりはしていたけど、基本的にはこの本にかかりっきりだった。出先でも家でも毎日読んでいた。

これだけ時間がかかったのは、英語だったからだ。

で、なんで英語なのかといえば、邦訳が出てないからなのだけど、一番強く感じたのは、ゆっくり読むことの効果だ。

 

 

よく英語で本を読むと理解できるというけど、もちろんニュアンスやら翻訳の質や英語特有の論理という問題があるのだろうけど、かなりの部分がゆっくり読むことに起因しているのではないかと思った。俺の英語力は別に優れているわけでもないし、辞書を引きながらゆっくり読むし、文法事項はかなり抜け落ちていて、単語もそんなに熱心に調べないこともあった。

アンチフラジャイルの邦訳が出たとして、休日なら一日あれば十分読み通せるだろう。それを一か月かけて毎日少しずつ読んでいったのだ。

 

普段本を読むときは、滅多に文章を戻って読み返したりはしないし、まして音読することもない。だけどAntifragileを読んでいるときは、かなりの回数音読することがあった。よく理解できない文章にあたっても、音読すると意味がわかることがかなりあった。文脈はとても大切で、それに沿っていけば文意を見失うことはなかった。

 

ゆっくり本を読むということは、情報を減らすことだ。少ない文章やコンセプトが、頭の中をずっと占拠するということだ。読んだ文章の中に出てくる概念を、日常生活で出会ういろいろなものに当てはめていくということだ。数時間のうちに一冊の本を読んだとして、その考えを実際に使う時間がなければ、それは単なる知識として蓄積されるにとどまるんじゃないだろうか。実際、俺はあれこれと本を読んでいるけど、それをうまく活用できているという自信がない。その著者ならどんな風に考えるかというシミュレーションができるほどに、本を血肉にできているかといえば、そうだといえる例はそんなに多くない(もちろん、スクリーニングというのもある。粗悪な本も存在するし、そういうものならば、熱心に時間をかけて読むのはばからしいだろう)

 

 

数年前の何か月か、積読を消費することに憑かれていたのだけど、それはあんまり良い時間ではなかったように思う。何か、本当にその考えを必要にしたのではなくて、とりあえず買っておくとか、その本屋で一番マシに思えたとか、これは教養として押さえておかなくちゃみたいな感じで買っていたからで、それゆえに面白味がなかったし、出会いの必然性もなくて、読むことが苦痛だった。しばしば酷い翻訳としか思えない本にあたったし、質の低い本にもあたった。そういう苦痛というのはたいてい身にならない。一年で何冊本を読むみたいなことはやっぱりばかげているように思える。それは本を評価するためには必要なのかもしれないけれど、本を血肉にする方法ではないだろう。

 

その時期に読んだ本で唯一素晴らしいと思えたのは、ボヴァリー夫人だけだった。そしてそれは、早く読むことのできない本だった。(ちなみにこれについてタレブはブラック・スワンの中で、イタリアの蔵書家・哲学者ウンボルト・エーコの反蔵書という表現をしている。読まれなかった蔵書=積読、というのは価値のある情報なのだ)

 

頭に入れておける文章の量には限りがあると思う。一冊の本の内容を頭に入れるとき、そのうちどれだけが頭に入っているかを考える必要がある。早く読めばその分だけ、重要な箇所だけを抜き出して読むことになるし、要約は粗雑になる。もちろんその粗雑な内容がその本の主張を網羅してる場合もあるのだけど、それなら初めから読む必要がなかったということになる。

 

人の脳は、視覚情報を常に補正している。だからサッカーの試合をテレビで熱心に応援しているときに、ゴリラの絵が通りがかってもそれは見えないし、僕らの目にはものが見えにくくなる点があるのだけど、それは常に補正されていて、特殊な図形を注意して見つめたときにしか、その正体に気付けない。

読書においても似たような作用があるんじゃないだろうか。本を読んで、それを自らのイデオロギーの補強のために引用することがある。目的が先にあるわけだ。そういうときにはその本の思考は無視され、目的に沿った形に偏って要約される。そうじゃなくても、知っていることに無理やりあてはめて納得したり棄却したりすることがある。どのみち、そういう読書は人に殆ど何の影響も与えない。思考が変化したり、新しいものの見方をインストールすることもない。自分の確信を強めるだけだ。

 

 

ゆっくり読むことで本のコンセプトが頭を常に支配するようになる。その著者の視点が、一定期間頭の中を支配する。

物事は自分の目で見ると同時に、著者の視点でみるようになる。彼ならこの状況でどう考えるだろうか、ということをシミュレートできるようになる。

 

 

俺は高校時代は本を沢山読むことに憑かれていたし、大学で本が読めなくなったことに落ち着かない気持ちを覚えていたのだけど、強制的にゆっくり読むのは快い体験だった。なんだかずいぶん久しぶりにこういう読書をした気がする。本を読むことは知識をつけるための手続きではなくて、一つの冒険だったときのことを思い出したんだ。