ツイ禁しんどい
ツイ禁をしてもとにかく何か書きたいという願望はあるわけが、断片的に書き散らすこともできないのでこうやって文章を書いてしまう。
それでもなにやかにやとタイムラインを覗いたりふぁぼったりしている。携帯からツイッタークライアントは削除したから出先では見ていないが。
ここ二ヶ月のつぶやき数はえらいことになってた。月に2500、一日あたり80くらいつぶやいてたわけだ。廃人と呼ばれても文句は言えない。
学校がはじまるまでは500くらいだったから、5倍だ。戦慄した。
格好の暇つぶしがなくなってしまったので、勉強したり本を読んだりしている。ニコ動をみるのもゲームをやるのもあんまり楽しくなくなっていて、離れがちになってしまった。多分良い傾向だとは思うのだけど、どこか釈然としないところがある。
あまりよくない本を沢山読みあさるのは必ずしも悪いことではないのかもしれない。俺が子供の頃に読んだ経済入門とか、小説に関する評論とか日本人論とか、今考えてみると結構くだらないものがあったんだけど、それは結局あるステレオタイプを理解する役に立っている。正しいものとか本当のものを見出そうとする努力はとんでもないところに向かいがちで、手元にあるものをかたっぱしから消費していくうちに何らかの見識が生まれる、ということはあるんだと思う。山形浩生は教養主義宣言で、100個くらいのしなびたミームが何度も再利用されていると書いていたけど、そのしなびたミームの一覧を言語化された形で早めに理解しておくと、異なる考えをわりに受け入れやすいかもしれに。
古典の良いところは、それがどのくらい正しいのかとか、間違っているのかとか、ちゃんと眉に唾をつけて読んでおけるところにあるのかもしれない。今読んでる資本論の読解書は、資本論の現代的な意義と切り捨てられるべき部分をはっきりとわけて解説しているがゆえに、どこかぼやけているところがある。一度資本論を読んでからその復習として読むのがいいのかもしれない。
紙とペンを用意して、数式なり、図説なりを使うような時間をかけた読み方をするにはやっぱりそれなりに体力がいる。
あれこれと独学していて、間違いを訂正してくれる人もいないし、普段遣いの語彙やら引用やらがなにやら権威みたいなものにみえてしまいがちなところがある。それはとても不安になる。
どこかにとっても頭のいい人がいて、その人がいろんな正しいことを教えてくれるはず、みたいな幻想を持ってもしかないわけで。それに実際にそうあらわれても話したくらいじゃ俺は心酔しないんじゃないかな。なにかしら論争らしきことをして、話した後に家に帰って、少し間違っていたかもしれないと思うくらいだろう。
有意義な日常が過ごせているとして、それでかえって不安になるってのはどういう了見なんだろうか。よくわからん。
最近phaの日記をぱらぱら読んでいる。俺はやっぱり人生を暇つぶしだって割り切れないなあって考える。自己啓発的な路線もなんか違うと思うし、人生は無意味だって割り切るのは無理だなーって感じ。じゃあ社会貢献すれば幸福な人生かといえばそういうわけでもない。
萩原朔太郎が芥川龍之介との会話を想いだして、詩人の死を前にして、名声を得た、歴史に残る、そうだとして何になろうって芥川に言われたことを書いていた。同時代の歴史に残る経営者や政治家は満足して死んでいったというのに、詩人の死は、悲しいと。
それと同時に、詩人は真実を見出す。科学者はそれを通俗化する、なんて書いている。
円のゆくえを問いなおす: 実証的・歴史的にみた日本経済 (ちくま新書) [新書]を読み終わった。
この本にしても、クルーグマンのさっさと不況を終わらせろにしても、今の不況は小手先の問題で、金融政策によって袋小路を脱出できるんだって主張なんだ。で、俺はそういうのになんかいいなって感じるんだ。為替制度が金本位制から変化したのに、政策に関する態度はその時代のままだというのがこの本の大まかな主張だ。多分手を動かしたり、グラフを見てしっかり頭を動かせば内容があたまにしっかり入ってきたと思うのだけど、そういうふうに出来る状況をつくらないとしんどいな。
小説は全く別の場所に自分を持っていってくれることがあるけど、こういう本は難しい。高校時代は授業中にずっと本を読んでいたけど、小説が多かったのはそんな理由があったのかもしれない。
順序だったふうにある物事を伝えたいとか、こういう意見を発信したいとかがあんまりない。だとしたらこれをブログでやる意味はなくて、ツイッターでやればいいんだと思うんだ。
ツイッターなら考え事を書く場合かなりTLに左右される。だから流れてくる政治ツイートに影響されて条件反射なつぶやきをしてしまったりする。
あっちこっちに思考がとびまわるのはツイッターのせいなのか、もともとそういう性質だからなのか。
しかし一人であれやこれやを考えていても全くつながりみたいなものがみつかってこないな。誰かに説明するって形式には意味があるのかもしれない。わかっていることを別の言葉にすることが大切なんだろうな。
文章を書く場合には、わかっていることをわかりやすく書くのと、わからないことをとにかく書いてみるというのがある。前者のやり方については山ほどマニュアルや指南書があるが、後者のやり方に言及してるのはあまりない。村上春樹は自分の小説でそういうことをやっているとエッセイで書いていた。河合隼雄は村上春樹の執筆スタイルを昼間に夢を見るようなものだ(だからあなたは夢をみないのでしょう)と対談で言っていたな。
ポール・グレアムもそういうスタイルの書き方をエッセーの時代で書いてた(和訳はもう消えてた。書くまでどういう結論になるかわからないような文章をかくこと、と言っていた)
その系譜にはエリック・ホッファーがいる。
そもそもの元祖はモンテーニュだ。
日本の場合は兼好法師の徒然草になるんだろうか。教科書で引用された文章のせいか、日本の随筆は自然のことについてばかり書いているような印象がある。俺は古文がろくにできなかったから勉強の為に対訳で読んだけど、なんだかあの直訳調だと面白みが抜け落ちてしまう気がするんだよな。だから未だに日本の古典作品を読む気になれない。なんだか苦手意識があるんだよな。橋本治がそういうところからいろいろ面白い考えを引き出していて、彼は自分が古典がわからない人だと、わからないという方法で書いているから、それはそれでやってみたら面白いのだろうとは思うのだけど…(でもたいてい、そういうことってそのまんま放置されるんだよな)
おれの文章はモンテーニュの系譜にはない。彼らの文章はそれなりに筋がとおっている。中心となるテーマがあるように思える。もちろんテーマが先立つわけではないと思うし、何度も書き直しをくわえた理由もあり、人生経験やら文才やら論理的思考力の違いとかもあるのかもしれない。だが俺はここまできて自分が何について書こうとしているのかさっぱりわからないのだ。
わからないという方法、読みなおしてみるかな…。
とにかくそういうやり方を方法論として書いたものはあんましなくて、やってみるまでどうなるかわからないようなものを方法論にするってのも無理な話なんだし、使用目的も限られるから仕方ないことなのかもしれないけど。
頭の中にあるぐちゃぐちゃをそのままにだすってわけだ。
たくさん種をまいて、よく育った物に目をつけるのがいいのかもしれない。ただなんつうか、ダメな方向性って感じもするんだよな。
小説なら物語の軌道があって、然るべき部分に収束していくところがあるんだが、普段頭にあることを書いていってもどこにたどり着くわけでもない。
書きなおして、文章をシャープにしていくことで自分が考えていたことがわかるのかもしれない。
俺がphaの日記が好きなのは、いきあたりばったりにいろんなことに手を出しては飽きてって感じでやってる人が時間を経つうちに何やら目標らしきものをみつけて、しっかりと行動して具体的な形にする、みたいな道筋がみえるからだ。だから昔の日記を読んでて、こんな愚にもつかないことをあれこれ考えていても、立派なブログみたいに結論とかを導かなくても投げっぱなしにしても、何かしら形になるんだなって思えるからだ。
もちろんそれは幸福な例であって、何にもならずにおわる、ということもあるのだろう。
しっかしツイッターもはてなブログも、フロー要素が強いんだよな。だけど未だにはてなダイアリーはよく使い方がわからないし、デザインははてなブログのほうがすきだ。
ぶつぶつと途切れた思考だけど、ゆるいつながりくらいはあるのかもしれないし、他のつぶやきに乱されないところはいい。