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I'm only sleeping

日記 雑記 思いつき ついったー https://twitter.com/1dgwa

ここではないどこか

俺の帰るべき町がどこかにあった気がする。懐かしい場所ではない。

親類は一人もいない。俺の遺伝子を残せるのは俺だけになった。そして俺は全く違う場所にいる。少しずつ記憶も薄れていく。どのみち、魅力的な場所ではなかった。どこにでもあるような町だった。

にもかかわらず、俺はそのあくまでも人工的に作られたベッドタウンのどこまでも続くコンクリート製の団地に帰ることを、夢想してしまったりする。俺がいる場所は”ここではないどこか”で、俺はずっとそこに行きたかった。単調な生活、パターンを抜き出してみれば似通った噂話、溢れかえるチェーン店、くたびれた顔の老夫婦がどこにでもいて、全て退屈で塗りつぶされている。”ここではないどこか”はそういうものが一切無い。そこはやけに煌めいている。うだるような暑さの夏の日には美しい女が陽炎に映る。瑪瑙売りは異国の言葉で値段の交渉をしている。また、冬になれば全く違った姿をみせる。宝石の粉がゆったりと降り注いで、太陽の光を乱反射する。深くフードをかぶった人間が足をだらしなく伸ばしながら、白いテントでパイプをふかす。地下室には秘密の迷宮があって、そこからまた、別の”ここではないどこか”へと旅立つことができる。

 

昨日売りがときどき迷宮に現れる。彼は昨日を売ってくれる。同じ日を繰り返すことができる。勿論、自分の振る舞いは一切変わらずに。記憶を明確な形で追体験するわけではない。それでも”ここではないどこか”では、全く違う物、気付かなかった景色、思いがけない偶然の一致を見出すことができる。

 

雨が降ればいいと思う。そうすれば俺は家に閉じこもる理由ができる。ここの傘はあまり質が良くない。油紙で作られた傘は、強い雨がふるとすぐにふやけてしまう。そうでなければ俺はまた市場の魔力に吸い込まれてふらふらと歩き倒して一日を過ごしてしまうだろう。なにせ街は、毎日全く違う顔をみせるのだから。

 

ここにどうしてやってきたのか、俺ははっきりと覚えていない。

俺は友人の家で酒盛りをしていた。朝がきて、俺は頭が痛くて酔い覚ましの烏龍茶を買いに自販機を探した。妙に奥まったところにある友人の家は、近くに墓場があった。それはプラスチックの塀でみえないように区切られていたが、自転車で立ちこぎすればはっきりと見えるのだ。苔の生えた密集する墓地が。

 

俺は”ここではないどこか”にやってきたとき、持ち物は飲みかけのペットボトルだけだった。俺はふらふらと歩きまわっていた。はじめから異国だったわけではない。宝石の雨も、陽炎も瑪瑙売りも地下の迷宮も最初は存在しなかった、と思う。俺は気まぐれにうつろう夢のような世界に、驚くこともなかった。いつのまにかおかしなことが起きるようになっていたのだ。だがそれに気づくまでにはかなりの時間を要した。その間に俺は三人の女と寝た。三人とも全く別の街で出会った。彼女たちと暮らしていたときには、昨日売りはあらわれなかった。最も俺も別の場所へ行こうという気もなかったのだが。

 

帰るべき街について考えるようになったのはここ三ヶ月ほどだろうか。突然頭に浮かんできたのだ。何の前触れもなかったはずだ。しいて言えば、この脈絡なく改変を繰り返す街に倦んできた、ということだろうか。

 

地面売りの男が俺に声をかける。

「あんた、必要ないかい」

ござの上にあぐらをかいた老人は、地面まで届きそうな真っ白な髯を生やしている。そのせいで表情はみえない。人懐っこそうな眼だ。

地面売り、とだけ書かれた看板を首にかけている。

「何を売ってくれるんだ?」

「みたらわかるだろう、地面を売るんだ」

この男を見たのははじめてだった。もっとも、殆どの市場の人間は何度もみることなどないのだが。

「いったい、幾らだ」

「金はとらねえんだ。金はいらねえんだよ」

しゃがれ声は聞き取りづらかった。俺は黙って彼の眼を見た。

「いや、あんたがな、欲しいと思ったんだ。あんたも思い出したんじゃねえかなってな」

「元にいた場所?」

「ああ、ここは場所じゃねえがな、場所じゃねえが、土地はあるんだ。あんた欲しいだろ、全部は無理だが、ちょっとは売ってやれるんだ」

「何を払えって言うんだ」

「あんたの思い出さ。あんたの記憶、忘れられずこびりついてる物」

「そしたら、俺は忘れちまうじゃねえか」

「それがいい。それがいいんだ。それこそ望みだ。あんたが欲しがってるものを手に入れるためにはまず、欲しがってることを忘れなきゃいけない。欲望は危険なんだ。あんたの欲しい物はここで何でも手に入る。だけど条件がある。あんたはそれを欲しいと思っちゃいけない。だからここで買い物することはあんまりないだろう」

「ああ、確かにそうだ」

瑪瑙の美しい首飾り、繊細な塗りの日本画、可愛らしいくまの人形、それらは確かに魅力的だったし、とても安かった。だけど欲しいとは思えなかったのだ。そこで買わなければ二度と出会えないと知っていても。

「だけど、何事にも抜け道がある。あんたがほしいってことを忘れちまえば、そいつを手に入れられるんだ」

「そうしたら俺は…」

「思い出すかもしれない。またな。そうしたらあんたは昨日売りを探して、その日を売ってもらえばいい。そうすりゃあんたは元の場所に帰れるって寸法さ。ここはちょっとした休憩地にすぎないんだ。あんたは少し長く居すぎた。もちろんここにいてもいい。だけどあんたは売り物をもってないからな、多分戻ったほうがいいんだ」

 

地面売りはいつの間にかいなくなっていた。そして街の喧騒は消え、また音が戻ってくる。

 

団地はどこまでいっても人一人いない。俺は歩きまわったが自分がどこにいるのかわからなかった。番地を見つけようにも、どこにも表示がなかった。延々と歩きまわっても、行商人もいかなる売り物も人も見当たらなかった。幸い雨が降ってきた。俺は空を仰いで口を開いた。のどの渇きが癒されていく。灰色の雨。

 

意を決して、団地に入ってみることにした。地下への階段があった。迷宮を歩きまわった。迷宮は団地に囲まれていて、相変わらず人一人いなかった。俺はあてもなく、歩きまわった。そして疲れると適当な団地に入って、地下へと降りた。

 

夜になっても音一つなかった。俺は公園のベンチで眠った。目が覚めたのは深夜で、身体の節々が傷んだ。

涙が流れてきた。どうして俺はここにいるのか、何のために歩いていくのか、俺は団地のドアを開けた。それは簡単に開いた。罐詰があった。飲みかけの烏龍茶のペットボトルがあった。ありがたく頂いた。涙が流れてきた。俺は女の名前を思い出した。彼女がいることを願って、自分の身体を抱きしめた。女の名前を叫んだ。

 

昨日売りがやってきた。

「あんた、ようやく声をだしてくれたな。ずっと探していたんだ。もう大丈夫だ。あんたは元の場所に帰れる。もう大丈夫だ。ここのこともじきにわすれる」

 

 

 

 

それは長い夢にしてはできすぎていた。俺のそばには彼女がいた。俺が寝た三人の女はいずれも彼女の別の顔だったのだと、今にして思う。