I'm only sleeping

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フロー至上主義者の表象

フロー至上主義者はどんな人間だろうか。

一つ例を挙げる。

彼が求めるのは持続性の快楽だ。快楽主義者に似て即物的ではない。彼は長期的に見た快楽を最大化させようとする。彼は善悪を問題にしない。その感情自体は、暴走行為からも、犯罪行為からも生まれることを知っている。彼がそれをしないのは、割りに合わないからだ。刑務所でフローを味わうのは難しいと考えている。彼は思考はするが悩むということはない。彼が目的とするのは没入できる時間、思考からも漠然からも程遠い凝縮された時間だけだ。

時間と集中力は限られている。そのために残り時間は全て体を休めることに当てる。料理を作ったり、軽いストレッチや瞑想をしたり昼寝をする。そうやって温存した集中力で彼はスポーツをし、勉強をし、文章を書き、楽器を弾く。人と付き合う時間はさほど長くはない。会いたいと思ったときに連絡をとり、少ない人数でじっくりと話す。それは心地良い、しかし頭の芯まで疲れるような会話だ。相手のことを深く理解し、細やかな心の襞を明らかにするために念入りに考えて言葉を使い、自分の思考を明晰に伝えようとする。彼はぐったりと疲れて寝床につく。そして深く満足した気分で眠りにつく。

 

彼にはあまり内面がない。彼が過ごす時間の多くは彼自身と向きあう必要を感じさせないものだ。何かを学ぶ時も、文章を書くときも、没入できるかどうかが問題なのだ。そしてそうなっているときには自分自身の内面を覗き込むようなことにはならない。言葉は思考よりも早く流れていく。

 

時折彼は自分の演奏を聞きなおしたり、文章を読み直したり、体の動き方をビデオで見たりする。それはより良くするためだ。しばしば彼はこう思う。

私にはこんなことができたのか!

勿論それは上手く行った時であって、そうでもないときや、苦しんでいる時もある。しかしその瞬間にはとても幸福な気分になる。

彼は幸福をあくまでも副産物だと心得ているから、それを直接求めるのはあまりうまい手ではないと考えている。

 

彼はある一つの目的に奉仕した人間だ。彼は悩まない。明確な基準があるからだ。そこでどれだけのフローが体験できるか?それこそが彼の問題となる。彼は金を稼ぐことを重視する。それは幸福の幅を広げる。しかし金にとらわれすぎてはいけないと考える。問題はトレードオフなのだ。

 

具体的で素早いフィードバック、技能の向上が眼に見えること。彼にとってはそれこそが一番大切なことで、それを仕事にしようと試みる。

 

 

…ここまで書いてきて彼は幾分味気ない人間なのではないかと思う。退屈な人間だとは思えない。尊敬できる人間でもあるだろう。おそらく彼は卓越した技能を手にする。そして生活のための無駄を平気で切り捨てられる人間だ。彼は全てをフローで判断する。金や名誉というものははじめはほとんど考慮しない。

彼はアイン・ランド『水源』の登場人物、ハワード・ロークに似ているのかもしれない。ロークは建築家であり、自分の中に正しさの基準があり、それにしたがくことが最も大切な事であると考えている。そして自らの基準に従う過程で社会に拒絶され、貧困と不幸にまみれ、最終的に妥協することなく自らの基準と社会を合致させる場所を作り出す。ハワードは作中で変化しない。彼の価値観は1000ページもの小説の中で一度も変わらない。社会によってもてはやされようと、貶められようと、金を得ようと失おうと、彼は設計図を書き続ける。

 

それは魅力的だろうか?そう、確かにそうだ。その小説の魅力は稚拙な情景描写や、ハーレクインめいた都合の良い展開や、うんざりするほど長い伏線回収、分かりやすく色分けされた悪役と味方、それを補ってあまりあるくらいには。

 

フローの提唱者、チクセントミハイの本に出てくるフローの体現者は、フローという概念に導かれることで、地位や尊敬や幸福を手に入れているように思える。勿論それは幸福なロールモデルに過ぎず、彼はインディアンの保護地区で破滅的なカーレースにふける若者もフローを追い求めた人間の姿として描くのだけど…。

 

フローの良い点は、その定義がぶれることがないことだ。幸福や、裕福、名誉、快楽はその基準が簡単に変化する。しばしば人はそれを絶対量と考える。しかし体験の心地良さの度合いは、基準点からの変化量を基準とする必要がある。だから幸福を得ればさらなる幸福を求めようとすることになる。それは人生の基準にするにはあまりにも儚いものに思える。

 

何かを目的とする場合、他の物事が捨象されることは多い。明確な例は受験勉強だろう。英語ができるようになるのと、英語の試験に通るための勉強は重なりあうところがあるにしても、完全に一致するわけではない。

問題は、何が切り捨てられるかだ。

フロー至上主義者は役に立つかどうか、という点をあまり重視しない。だから彼は音楽や小説を愉しむ。植物学や整数論を熱心に学ぶ。

 

だけど、何かが足りないような気もする。

俺は多分これは悪くないやり方だと思っているのだが、何かを見逃している気がする。一般的な人間からの逸脱、これが問題なのだろうか。確かに彼はみんながやるようなことはしない。それにフローが付随しなければしない。彼は積極的には人と付き合わないだろう。人間関係の悩みを愚痴るようなこともなさそうだ。

彼はあまり人間的ではない。それは確かにそうだ。しかしそれはむしろ喜ばしいことのようにも思える。概念に結びつけて突っ走ることは種の制限を取り外すことになることがある。

 

 

俺は賭けてみる価値があると思う。