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I'm only sleeping

日記 雑記 思いつき ついったー https://twitter.com/1dgwa

乱雑思考・フロー至上主義

エッセイ

人間の意志というのは実に簡単に周りの環境に左右される。物事に関する間違った説明は死ぬほどたくさんある。その中でまともに検証できるものはほとんどない。何故こんなにも食い違ってしまうのだろうか、といつも思う。そしてそこから逃れようと、自分の頭で考えようと思っても安易に陰謀論に絡み取られてしまったりもする。

 

論理を積み重ねるのはきっと、どこか遠くに行くためで、別の場所から眺めるためで、正しい答えがそこにある、と考えるのはそもそもナンセンスなのかもしれない。

 

そういえば言葉と言葉を時々無意味につなぎあわせることがある。だけどこれは必ずしも無意味というわけではない。アンカリングという概念がある。直前に見せられた数字と推測の値が近いものになる、ということだ。

ランダムに言葉を連ねようと思った場合も、さっき聞いた言葉や見たものにひどく引きづられてしまったりするんだ。

 

ところで小説を書くたびに思うんだが、なんでこれをやった後はひどく頭が疲れるんだろうか。めいっぱいからだを動かした後に、走ったりしたいと思えないようなものなんだろうか。それに関してはまだ工夫の余地があるように思う。無理やり書いているうちに、長くかけるようになるのかもしれないのだけど、それで嫌になったら元も子もない。

 

そういえば学生時代にたてた目標で一番報われないのは、音楽や演劇で身をたてるということらしい。競争率を考えれば頷けるところがある。

 

アキレスの亀を読んで俺は主人公をなんてバカなやつなんだと思ったんだ。北野武は彼を理想の芸術家として描いたらしいのだけど、俺はそんなふうには見なかった。どうしようもなく愚かで、周りを破滅する芸術家なんてのは多分クソで、その芸術的な価値はおいておくとして…でも最後に焼け焦げた空き缶を高値で売るシーンはなんだか好きだ。そこにあった物語を知ってるのは主人公と視聴者だけなのだけど。

 

説明するという行為はどこか妙なところがある。徒労感というか、結局それを話して何になるのか、みたいな話で、それは純文学のあらすじみたいな話に似ている。あらすじだけでも面白いバルザックのような作家もいるけれど、でも考えてみれば面白くあらすじを説明できるというのは結構難しいことだったりしないだろうか。

 

何かを分かりやすく説明するのは、その分何かを殺すことになる。

あまりにも共通の言語や文化体験がなく、相手が裂ける十分な集中力も理解力もない場合、絶望的にわかりやすく説明することになるのだけど、その時に陰惨な気分になるのは何故だろうか。俺は何かを弔っているのだろうか。あるものを説明するよりもその周辺の沢山のものを描いていったほうが良い場合はある。そのほうが魅力的に映る。肝心なものは推測できる程度にするのが良いのだと思う。

 

 

会話やらつぶやきやらがあっちこっちに飛ぶ。それを一箇所に抑えつけておくのが難しい。説明するような文章を書くのはしんどい。集中力を無理やり抑えつけていくのは無理がある。

 

 

フロー至上主義。

フローは、難易度が自分にとってある程度高いものを最高の集中力で、素早くフィードバックが戻ってくる環境で行うことだ。それをしている間は何も考えない、というか、楽しむという意識さえ無いような状況なのだけど、それが終わった後、深い満足感を生むような状態のことだ(わたしにこんなことができたのか!)

 

 

これを最大化することだけを人生の目的にしたらどうなるんだろうか。少なくとも一つの指針にはなる。素早いフィードバックと、明確な向上を目にすることができるようなもの、なんてふうに。有意義な人生みたいな言葉で捉えるよりも騙されにくいし、目標を達成すること自体を目的にするがゆえの挫折に囚われることもない。

フローを感じられる時間をなるべく増やすというのは有用性や健康にゾンビみたいに引っ張られてしまう危険も少なそうだ。

 

一つのことを考え続けるのが苦手なのかもしれない。それは少なからず、長い時間をツイッターで過ごしたせいがありそうだ。あれは俺にとってはTVみたいなものだから、なんとなくずっといてしまうんだ。それに疲れていても何かしら新しい情報が出てくる。そのほとんどは咀嚼する必要もなかったりする。それにどんなに長くてもせいぜい140文字だ。

禁止してみたらいいかもしれないと思う。何度かやってみようとしたことがある。そのたびにしんどくなる。無理してやめるものではないし、それで人生が豊かになるというわけでもないのだろう。

 

 

多分おれの頭の中にははてブ人気エントリみたいなのが正しいブログなんだって意識があって、それはずっと深く刺さっていて、なんというナンセンスって思いながらも逃れられないところがある。とっても変な感じがする。こういうものだってイメージから逃れるのはなかなか難しい。未だに正しい小説とはとか、正しい歴史とはとか思ってしまうけど、そう言うのは基本的に碌なことにならない。相対主義を唱えるつもりはない。何らかの優劣があるにしても、囚われてしまってはいけない。とらわれてしまうと正しい何とかについて考え続けてしまう。それはある程度のところにとどめておく必要があるんだろうし、そう、多分単純な言葉ではなく語られた様々なことから滲み出てくるものであるのだと思う。