I'm only sleeping

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図書館に行った

晴れているのに雪が降っていた。

外に出るたびに思う。天気はいつだって悪くなるし、風は大抵は向かい風で、自転車を漕いでる時はもっとそうで、車に乗ればさらにひどいのだろう。

図書館でパースの伝記を探した。タレブの本に興味深げに引用されていたのだ。可謬主義を唱えたと書かれていたがそれ以上に魅力的なニュアンスがあった。彼のおかげで古い本を読む趣味が戻りつつある。

 

高校時代には意味もわからず沢山の古い本を読んだ。それは判断基準がなかったから、図書館にある海外文学は殆ど古いものだったから、そして殆ど間違いなく面白かったからで、例外は失われた時を求めてくらいだ。

 

それからジジェクの解説書を読んだ。そんなものがあるとは知らなかった。そして彼の本は分厚いのしか置いてなかった。俺はいつかジジェク自身によるジジェクが読みたいのだが。

素敵な図書館だと思ったのだけど哲学の棚には哲学の本は少なく解説書がたくさん並んでいる。

さみしい。

 

パースの本は一冊もないので伝記を読むことにした。とても分厚く、長い前置きが書かれる。100年前の哲学者の伝記が出るのになんでこれだけ時間がかかったのかについて。

彼は偉大な哲学者だと言われるがその著作は僕の住んでいる県の図書館には殆どない。

 

そういうものだ。

 

汚辱の世界史とローマ帝国衰亡史とパースの生涯を借りて帰る。

帰りに矢野顕子の音楽堂を買う。本当はピヤノアキコが欲しかったのだけど置いてなかった。そういうことはよくある。

兵士シュヴェイクの冒険は絶版になっていたがどうやら近所の図書館にあるらしい。

それはうれしかった。

これはトニー・マイヤーズのジジェク解説書で引用されていた。

物事を言われた通りにやればどんなひどいことになるかを描いているって。

しかし最近読み始めたブルーノ・シュルツと同じく彼もカフカに近いらしい。本国ではそんなふうに捉えられていないっぽいのだけど。

そういえばカフカを楽しめる人の割合はどれくらいだろう。カフカでも読んでみるかと思い、二度と触れなくなる人の方が多そうだ。

城を読んだ時の迷子になった気分、審判を読んでいるときのねじれるような苛立ち、覚えているのはそういう感情のひだくらいだ。

 

何の役に立つのかという質問の意味についてときどき考える。

特に自明だとも思えないし僕自身何かの役に立つと思っていないのだけど。

そもそも何の役に立つのか、という質問をする本人は無意味なことをやっている、それは楽しみのためで、そうじゃなきゃ役に立つとか。

まるで僕が楽しんでいないと言わんばかりだ。

 

モンテーニュがタレスに関して触れていた部分を思い出す。

『あるとき、タレスが、家政の気苦労とか、富めることにともなう不安などを攻撃したところ、「あなたは自分ではうまくできないからといって、キツネみたいに負け惜しみを言っているだけではないか」と人々に言い返されたのだという。そこでタレスがどうしたかと言えば、それならばおもしろいから、どうなのかを証明してやろうという気になって、その学識を少しばかり格下げして、金もうけに使うこととなった。こうしてタレスはとある商売を立ち上げると、この道の達人でも、一生かかって、やっと稼ぎ出せるほどの富を、たった一年でもたらしたのだった。』

エセー 第一巻 第二十四章 教師ぶることについて

 

僕もそうだと考えることにしている。

 

 

高貴さについて。

これを真っ当から扱っている作品は大抵古いものだ。

タレブが扱っていたので思い出した。

カラマーゾフの兄弟を読んだ時も一番これが気になったのだ。

昔の人はこれについてしばしば書いていたのになぜ今の人は殆ど書くことがないのだろうか、と。

 

 

タレブは高貴さ、英雄性というものを次のように考えていた。

 

何度人生を繰り返したとしても変わらない賞賛されるべき資質。

 

成功者はひょっとしたら同じ人生を繰り返した場合失敗するかもしれない。それでも、結果によらずに人の心を揺さぶらずにはいられない何かがあって、ホメロスはそれを大切にしていた。ソロンも然り。

 

モンテーニュもそれに関することを書いている。

 

しかしなんだ、いつも思うのだが俺が読む本には殆ど日本のものがない。古いものとなればなおさらで、それは俺が古文が大嫌いだったのと関係があるのかもしれない。

訳する過程はめんどうで、出来上がったものは美しくない。

それは何かを嫌いになるに十分な理由だと思う。

 

しかし素晴らしい作品が何かを知らないのも本当だ。源氏物語徒然草平家物語も古文を学ぶシリーズで読んだが殆ど何の感情も惹き起こさなかった。

 

今まで何かを覚えている必要はないが、何の感情も残っていないのだ。きっと何も感じなかったのだろう。勉強がわりにやったのが失敗だったのかもしれない。お勉強気分は全てをダメにする。役に立つからと言って何かをしてもじりじりと時間を搾り取られるだけだ。

 

日本の文学作品には好きなものも多いし、好きな本もある。

しかし良い本をみつけるのは難しい。

正法眼蔵はいつか読んでみたいと思っている。そう思って何年が経つだろう。

 

最近では森敦の『意味の変容』を読んだ。

読書会をやっているんだが、その題材で、紹介してくれた虚宮は俺のイメージに一致してると言っていた。

で、俺もなんかわかるなって思ったのが次の一節だ。俺はこの一文を見つけて笑ってしまった。

『ぼくたちはあとから想いだして、よくそんなときそんな気がしたように考えるが、実際はそれを想いだすことにおいて、そんな気がしたのだというようなことがよくあるから。』

 

教科書や百科事典を読んで、この本は、著者はこういうことを主張したのだなと思って原著をわかった気になって読まなくていいと思うのは全く正しくて、小説の歴史的な意味は、小説を楽しめない人の為に必要だからだ(ってナボコフが言ってた)

 

引用だらけになってしまった。なんだか頭悪い感じがする。本当はもっと自分の頭で、自分の文章で書きたいのだけど、まだちょっと松葉杖がいるみたいだ。横文字の羅列に騙されないで欲しい。それと引用先を示すのは自分の誠実さをひけらかすつもりもあって、気の利いた言葉を引用なしに使うのに罪悪感を覚えるのだ(自分の弱さから逃げるための手段!)