I'm only sleeping

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あまり記述されない類の本の読み方について

ポール・オースターの小説(というよりおとぎ話)に出てくる登場人物、
主人公の師匠となり、空を飛ぶ術を教えるミスター・イェフーディー。
彼はスピノザの本をいつも持ち歩き、何度も読む。そしていくら読んでも読み尽くすことはない。
一つ理解するとわからないことが三つ出てくる、そんなふうに読む。
俺は未だに哲学の本をどうやって読めばいいかわかっていないんだが、案外そういうふうに読むものなのかもしれない。
つまり、あるページをめくって、読んでみて、考える。そして理解し、生まれた疑問を頭にプールしておく。
結論とそこに至る経緯を読み込んで、それでよしとするのは何かが違う気がする。
『「意識」とは?』でインタビューされた多くの認知科学者たちが答えていたように、哲学は問いの源泉としては有用だけど、
それに回答を与える能力はあまりない。
それってどんな本と聞かれた時に説明するとき、もっとも答えあぐねるたぐいの本だ。
多くの本は、一つのメッセージを別々の側面から答える。だから要約は有効になる。
だけどそのプロセス自体に価値がある場合、あまり意味をなさない。

あまり見られない形式の読書ではある。
濫読者はいる。そして熱心に新しい本をじっくりと読む人もいる。
だけどそうやってゆっくりと、対話の相手として読むことは珍しいように思う。
村上春樹がやっているように、昔読んだ本をぱらりとめくって、思い返して没入すること。
そもそもそれは単に言語化するまでもないことだからなのか、やっていないのかよくわからないのだけど。
読書家は少ないけれど、ツイッターでそういう人とつながることはできた。
読書メーター式の読書ばかりが可視化されるわけで、そうすると再読やランダムな読みはわかりにくくなってしまう。
だけどそういうふうにして考えることこそ、本を読んでいるという感じがするのだ。