言葉に囚われないように気をつけていたが肝心なところで楔を打たれていた。
ずっと小説の文章がどういうものかということに囚われていた。
それは保坂和志や高橋源一郎、三田誠広の小説の書き方本をどこか手本にしていたからで、彼らは三人とも純文学作家だった。(そして僕は彼らの幾つかの小説は好きだけど、大好きというわけではない)ルールはないのだとわかってはいるのだけど、実際にやってみるのにはずいぶんと困難があった。僕の中にはどこか、言葉を拠り所にするところがあって、それを解消するために、例えば互いに矛盾し合うような、異なることを主張するような視点を入れておくようにしてたんだけど、小説において、意外とそれがなかったのは不思議なことだ。例えばバルザックの小説なんかはがりがりとあらすじで書いているし、色川武大の語り口はなんだかおっさんが思い出話をしているみたいだ。それらは小説であって、なぜそういうことに気づけなかったのか不思議でならない。小説を読んでいた一週間があった。積ん読を消費していた。一番の収穫はそれだ。他に何かあるのかと言われてもよくわからないが、そのあとするすると文章がかけていくところがあって、なんだか貯金を吐き出しているみたいだった。
その手の囚われをなるべく減らそうとして読書をしていたのに、肝心のところでつまづいていたのは不思議に思えた。言葉によって自分を支えるというのは大切なことみたいで、そんなことをしている何人かの人に会ったことがある。
死にたいと言っている人で不思議なのは、その死にたさを防ごうとする意志が別のところに存在することだ。
その留め具として言葉が使われていることがある。
僕は根本のところで死にたさというのがないので(なるべく避けようとしてる。死にたさは僕にとっては痛みに似ている。危険信号に近いものだ。それはトゲを抜けば収まるものであって、根本に存在するわけではない)
僕はその留め具を分解してみたい。何の為にというわけじゃない。いや、理由はあるのかもしれないけど、理由をこねくり回すのは魅力を薄れさせる。出来合いの理由を上げてしまってやる気がなくなってしまうことは少なくない。
エインズリーの定義する意志は、目的を達成するのに必要だが、強すぎると人生の楽しみを奪うものだ。彼が適用したのは、主として依存症に関するものだ。それが拡張されて人間の存続なんかにも繋がったりするのだけど。
(人類が皆合理的な判断をするようになれば滅びるのではないか、という結論。なぜなら出産は合理的な行為とは言いがたいから)
だけど自分を支えている言葉を分解していくのは予想外に難しい。
分解するのに使う道具も、言葉なのだけど・・・。
昔僕の友人が、君は小説を完成させるのは難しいだろう、と言った。
その理由は、僕が根本的なところで幸福だからで、物語を作り上げる必然性がないからだ。
いくらかそれは当たっていると思う。