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I'm only sleeping

日記 雑記 思いつき ついったー https://twitter.com/1dgwa

役立つ小話は役に立たない

格言は使えない

 

ネット上ではいろんな名言集がある。ツイッターにも沢山の名言botがあり、タンブラーでも日々いい話が流れている。

ときおりタンブラーを眺めて延々良い話、為になる話を読んでいる時がある。どちらかと言えばそういう時は部屋が汚く、雑事にまみれ、頭の中がごちゃごちゃして、現実逃避の言い訳を探している時だ。

そしてそこで読んだありがたいはずの言葉は、殆ど頭に残らないし、役立たないし、むしろ有害なんじゃないかと思うことさえある。

 

身体化する過程が必要

 

名言というのは自分の行動によって雑然とした思考が研ぎ澄まされ、削ぎ落とされた結果として生まれるものなんだと思う。

それはどこか、本の要約に似ている。

要約によって最も利益を得るのは、その要約をした本人だ。

書かなかったこと、暗黙の文脈を読み取れるのは、要約した人だけだ。

もちろん、目の前の試験の時に、さっと頭に流し込むには要約は便利だ。しかしその知識は、身体化されない。身体化されるだけの強度を持った文脈を有していない。

 

陰謀・妄想・スピリチュアルが世界を単純化するという仮説について。

 陰謀論も妄想も、所謂スピリチュアルも全て、奇妙なもの、変なもの、一風変わった考えとみなすこともできる。たいていの人は礼儀正しく、そういう考えもありますね、と言って目をそらすなどする。それは偽りの秩序だ。世界を単純化する。星占いの計算式がいかに複雑であっても、そこには運命が計算可能である、という信念が存在し、それは間接的に世界を単純化する。行動に理由と秩序を与えてくれる。

 

 それには明快な利益が存在する。わからないことから逃れることができる。自分の行動に希望を抱くことができる。失敗した場合、そこには明確な原因が存在する。

 さして明確な理由も見つからず、失敗した原因も基本的にははっきりとせず、手探りであれこれいじっているうちに上手くいったり失敗したりする。そういうことにどうして耐えられなくなるのか。

 別にこの、秩序の存在を仮定し、それに安住する態度は”一風変わった考え”に限ったことではない。僕らが日常の問題…人間関係や何かだ…で悩んだ時、精神科医や心理学者、臨床心理士を引き合いに出して、専門家なら上手く解決してくれるだろうと考えることがある。しかしそれらの職業は決して日常のよくある悩みの専門家ではない。それを本当にわかっている人、はいるかもしれないが、育成できるものではないし、本当にわかっているかどうかを確かめる方法もない。

 にも関わらず、様々な領域で専門家の知識が存在すると仮定して、安心することがある。しかし誰も解決策を知らず、そのための知識はどの図書館にも論文にも存在しないということは、ざらに存在するのだ。

 僕らはしばしば、偽りの秩序を仮定する。

それは宗教的なものであったり、個人的なジンクスであったり、専門知識であったりする。それに問題を載せてしまうことで、安心する。

 ここで描いたような、心理学者、占い師のことを、精神分析では、”知っていると想定される主体”と呼ぶ。

精神分析医は、患者にとって”知っていると想定される主体”だ。患者の問題点について知っており、その心を分析できるとされている。

 スラヴォイ・ジジェクはそれが存在しないということを示すことによって、精神分析は患者を現実と向かい合わせる…らしい。(『ラカンはこう読め』によれば精神分析は…ラカン精神分析は、ということだが、患者の幸福、治療、安心のためではなくて、現実に向き合わせることを目的としているらしい)

それはそれとして。

 

 現実の複雑さは、知っていると想定される主体を仮定することで、ずっと単純になる。これに冷水をぶっかけるのがポパー反証可能性で、それは様々な学問の信頼性に疑問を投げかけ、本当に信頼に足るものはほんの僅かだし、変化し得るものこそが信頼に足るものだ=確かな知識であればあるほど、それが変化する可能性がある、という、非常に不安になる結論を導くのだ。

 

 残念なことに人間の認知機能は限られている。だから知識の不全性を知覚し続けるのは不可能だ。じゃあ健全な単純化と、そうでない単純化がいかにして分類されるのか。

 

 一つは自分の知識や秩序を笑い飛ばせることだ。人から見た場合にどう思われるかを、適切に想定できることだ。つまり人はこの考えを笑うかもしれない。だけど僕は有用だと信じる、とか、この考えは間違っているが安心するために必要なんだ、みたいな信頼と疑いの混じった信念の存在だ。いずれにせよそこには他者が存在する。

日記

勉強するのに飽きてきたみたいだ。civ4を起動したがなんとなくのめり込むわけでもない。インスタントコーヒーの味にも飽きた。晩ご飯はごはんとごはんですよだったが、何となく腹が空いている。根本原因はそれだろうけど、なんとなく動き出す気になれない。

別段何かを強いられているわけでもない。ふわふわっと進んできているし、息抜きに小説を読んだっていいが、そういう気分でもない。きっと腹を満たすのが一番良いんだろう。スーパーに行って値引きされた刺身でも買ってきて、よく冷えたペリエでも飲みながらご飯を食べれば良い。でももうパジャマ着ちゃったしこの調子だと朝までにもう一回寝るだろう。身体がパキパキとだるいのは運動不足で上手く説明できそうだ。何に対しても今ひとつもったりとした動きがある。多分一番はおなかがすいていることなんじゃないか、ペペロンチーノをしっかり作れば全部解決するんじゃないか、袋麺があれば随分と気がまぎれるのだが。近所には夜遅くまでやっている家系ラーメンやがあるが、そこはスーパーからは離れているし、なんだか不快な感じの雨がふっている。酒を飲んだほうがいいのかもしれない。しかし翌日の不快さを考えると飲む気になれない。何か気が紛れるものがあればいい。何かを成し遂げつつある感覚はある。別段何かのためではなくそれ自体が目的化して淡々と毎日を過ごしていると思う。病理学をやろうと思ったんだ。基本的な所見について改めて見直すことはきっと役に立つだろう。KID Aについてのつぶやきが目に入った。音楽をしっかりと聞くのは良い。何気なく過ごしていると毒にも薬にもならないような音楽を手段として聞くようになる。OASISとかを聞いてみるのがいいのかもしれない。QUEENでも良い。なにか爽快なロックンロールを聞いてみるのが助けになるだろう。教科書を積み上げてスタンディングディスクを作るのも気分転換になるかもしれん。少しカフェインに酔ったのかもしれない。少し腹に入れて、水を飲んで、教科書を開こうか

ザ・セカンド・マシン・エイジ おかわり

ザ・セカンド・マシン・エイジを読む限り、日本では最もシュンギラリティが必要とされるように思える。

高齢化社会は労働年齢の割合を減らし、また介護者をかなりの数必要とする。この現実をどうにかする方法の一つが、オートメーション化だ。労働適齢期の人間が少ないのだから、インフラを維持し生活を行い、非労働者を支えるためには、可能なかぎり労働を効率化する必要がある。現在の日本では労働時間が長くなっていると言われるが、厚生労働省によれば、労働者一人あたりの総実労働時間は、http://kochi-roudoukyoku.jsite.mhlw.go.jp/library/kochi-roudoukyoku/topics/topics222.pdf によれば、昭和35年から減少し続けている。

http://www8.cao.go.jp/kisei-kaikaku/kaigi/meeting/2013/wg2/koyo/131031/item2.pdf

こんな分析もある。労働時間が長くなったように感じられるのは、かつては土曜日に働くのが普通だったからだという。

 

こういう統計の数字を見ると、タイムラインで見る実感とは全く違っているし、少なからず労働時間と計上されていない労働が存在する。

そして何故か睡眠時間は減少しており、それは何かを示唆している。

このような傾向が続けば、いつかは破綻してもおかしくない。

 

このような状況はかつて存在した。例えば電話線の普及に伴う電話交換手の不足、そして海運の発展に伴う沖給仕の需要の増大…。または馬車の普及に伴う糞を捨てる場所の不足。この三つはどれも、需要が莫大に増加し、破綻すると思われたところで劇的な解決策が生まれた。

電話交換手の不足は電話交換機によって、沖給仕はコンテナ運輸によってそのままトラックもしくは列車で運ぶ仕組みが開発されて需要は大きく減少し、馬車は自動車に取って変わられた。いずれも需要の増大が起こり、賃金が高騰し、新しいテクノロジーを導入するだけの危機が生まれたのだ。

 

もちろん、今まで述べたのは幸運にも解決できた歴史であって、解決できないまま破綻した可能性だって考慮する必要があるのだけれど。

 

しかし、需要の劇的な増大に従って、機械がその仕事を奪い取るという状況は十分考えられる。

そこで奇妙なのが、現代の日本で需要が際限なしに増大し、供給が足りない仕事が見当たらないことだ。人手不足は叫ばれ、過労死が起こり、残業代が払われないことが常態化しているなど聞くが、人手不足で賃金が劇的に高い仕事は殆ど見当たらない。もしも一般的な労働(賃金がベル型カーブに沿っているような)そのような劇的に賃金が上がった職業があれば教えて欲しい。

 

実際には静かにAIに置き換わっているのかもしれない。それによって多くの仕事は知らないうちに置き換わり、僕らの労働の価値は減少しているのかもしれない。

 

自動運転車を走らせる余地は日本では大きいように思える。道路のインフラはしっかりと整っているし、

http://www.garbagenews.net/archives/2047698.html

によれば、交通事故死における高齢者の割合は高い。とはいえこれは、高齢者に車を運転する人が多い、ということを示唆しているようではあるが。

http://ala2014.hatenadiary.jp/entry/2014/07/11/025017

ただ少なくとも、若い人よりも高齢者にとって車は生活に必要な道具であるし、それはより高齢で、一人暮らしであるほどに高いだろう。そのあたりのニーズを満たすためにも、自動運転車を先立って導入する利点があるように思える。それは家族なり他の人の介護の負担を減らすことにも繋がりそうである。

 

その他にもAIに置き換わりそうな仕事は幾つかある。この国の慢性的な余剰労働力の不足と、労働流動性の低さは、機械化を推し進めているのだろう。しかしそれは静かに進行していて、知らないうちに置き換わるようなものであるように思える。その速度は国ごとにどんな違いがあるんだろうか。仕事が機械化される速度について書かれた文献はあるんだろうか、そもそも測定方法はなんなのか、しかし慢性的な人手不足は革新的な手段を取り入れる合理性が存在する。それによって労働者の天国がうまれるわけではないのがややこしいところだが。

 

しかしもう一度真剣に仕事を機械化する手段を考えるべきだな。AIについて学んでおきたい。それをどうやって使うにしても。

https://www.coursera.org/learn/machine-learning/home/week/1

 

このあたりが適当なんだろうか、日本語の書籍で良いものがあれば紹介してほしい。

 

 

 

 

 

 

*はじめ僕は機械による置換えを前提とする条件が日本では揃っていると書くつもりだった。しかし労働力の不足に伴う賃金の上昇は見られていないのだ。僕らは知らず知らずのうちに高度な機械化を果たしているのかもしれない。

だとすると労働時間あたりの生産性の低さ、というのが出てくるのだけど…。 

書評 『ザ・セカンド・マシン・エイジ』人類が機械に置き換えられるとき

ザ・セカンド・マシン・エイジ

概要

 

現代を、労働において機械が人間から置き換わりつつある時代と考えたときに、生き残るためにはどうするべきかについて書かれた本だ。

 

生き残るという言葉の響きは大袈裟だろうか?

しかし本書の中では不景気時に、不景気を理由に社員を解雇し、人間を機械に置き換える最高経営責任者の言葉が引き合いに出される。

Googleの自動運転車はもはや実用可能な段階に達している。

もし実用化されれば、タクシーに対して今までと同じ料金を払うのは難しいだろう。確かに産業革命のように、怒涛の失業が産まれた後、失業率は回復するのかもしれない。しかし失業率の回復は、失業した世代が置き換わる事によって起こる。技術革新による失業の補填は、僕らの次の世代を益する事実は、仕事を失った当人にとってはあまり救いにならないだろう。

 

本書で提唱されている生き残り戦略は大きく分けて3つある。

 

1.機械による置き換えを政治的な圧力によって抑えつけ、人間を守る。

これは下策だ。本書でも批判されている。これを行う限りその国はどんどんと衰退していくだろう。ファースト・マシン・エイジである産業革命期に起きた、工場機械の破壊運動であるラッダイト運動は、結局潰されてしまったのだ。

 

2.機械に出来ないことを仕事にする。

AIが将棋で勝つようになり、画像認識の性能が上がった時代でも、人間なら殆ど誰でもできる仕事に限って機械へと置き換えるのは不可能だ。少なくとも今の時点では、その歩みは非常に鈍い。

介護士やウエイター、清掃業を機械がやるのは極めて難しい。人間であればしばらく訓練すればできるようになるが、機械ではそうはいかない。何億円もする高価な機械が、限定された状況で人間の10000倍の時間をかけてこなす、そんなレベルだ。

ここは人間の強みを活かす場所に思えるが、需要と供給の理論に基づいて、賃金は安価なものにならざるおえない。

この仕事の多くは機械によっては代替不能だが、ほかの人によって代替可能だし、熟練による優越性は劇的なものではないからだ。

ゆえに機械に仕事が奪われた人々はこの領域に安い賃金でもよいと言って流入するだろう。

 

3.AIを使いこなし、AIと協力して仕事をする。

これが最も著者が勧めている仕事だ。

現代のチェスでは人間はAIに勝てない。しかしAIと人間が協力することで、そこそこのAIが最強のAIを打ち破ることができる。この組み合わせにはまだまだ創造的な側面がありそうである。

AIが得意だと言われているチェスに於いてもそうであれば、その他の仕事では尚更だと考えられるだろう。クリエイティブな仕事の多くはここに位置する。芸術の領域においても起きつつあるかもしれない。

 

 さて、大雑把な見取り図を描いたところで本書の特色を述べよう。

これは安易な未来予測書ではない。懐疑的実証主義者による本だ。

実際の実験結果を述べ、その先行きを推察するが、著者は徹底してテクノロジーの行く末は予測不可能であると繰り返す。

 

 著者はAIの未来に対する自らの予測が外れてきたことを隠さない。予測をすることをやめることはないけれど、自分の予測が簡単に外れる可能性について常に言及している。

 人間が移動手段としての馬と同じように…機械に置き換えられてしまう可能性についてさえ述べる。

 

 馬は古代から人類にとっては重要な移動手段であり、農村においては優れた労働力であった。1840年から1900年にかけて馬はアメリカ国内で6倍に増えた。1900年、米国内には2100万頭の馬が存在した。しかしながら1960年には、米国内の馬は300万頭へと減少していた。この背景には農村でのトラクター、都市での自動車の普及がある。

それまでのグラフを見れば恐らく馬の需要は単調増加であったはずだ。だとすれば永久に需要が増えていくと帰納的に考えても不思議ではない。しかし実際は異なっていた。

 

これはタレブが示した、七面鳥の問題の実例だ。

”養鶏業者が七面鳥に1000日間餌を与え続けるのをみて、七面鳥は今まで順調に餌をもらえており、今後ももらい続けられるだろう”

現実はもちろんバカげている。感謝祭の前の日に餌はもらえなくなるだろう。

 

ゆえに、今まで人類が機械よりも上手くやっていることは、人間が機械にとって変わられることはない、ということは示さない。

僕たちの仕事はそのうち機械がやるようになり、僕はハロワで仕事をさがす、そんな事態は十分考えられそうだ。

 

そんなふうに、人間が機械によって代替される時代を。シュンギラリティ(技術的特異点)と言う。

この時代にどう対処するべきか、真剣に考えるべきなんだが、僕は今ひとつ答えを見つけられていない。少なくともAIについては学ぶべきなんだろうと思うが。

映画CUBEみたいなTRPG

コンセプト

映画CUBEみたいなTRPG

 

TRPGでキャラクターの設定を作るのは時間がかかる。古いものでは何度もダイスを振らなきゃいけないし、流行のクトゥルフものでも相当に時間がかかる。

もしもGMが時間をかけて作ったキャラクターを簡単に死なせたり発狂させたりしてしまったら悲しいだろう。ゆえにキャラクターは生き残る事が前提になる。これではあまりホラーにはなりそうにない。ゆえにキャラクター設定はシナリオの展開に伴って書き足されていくものとする。

キャラクターが作られる過程と、脱出の手がかりをさがすのを同時に楽しむわけだ。

 

 

 

目的

記憶を失った人々が未知のダンジョンから脱出する。

入った場所は無数の小部屋があり、それぞれに謎の仕掛けが存在する。それぞれが技能や知恵や会話によってその部屋の謎を解いていく。

部屋の謎を解くごとに、過去のことを少しずつ思い出していく。

 

キャラクター作成

まず職業と名前を決定する。

職業に応じて乱数表が存在する。

判定に伴って能力値が決定される。

これはややこしいので具体的に説明してみよう。

 

Kはレベル1の盗賊である。盗賊の鍵開け技能は1d30+レベルである。

鍵開け判定を行う。鍵は25で開く。

ここではじめてKはダイスを振る。

彼のダイスの値は24であった。彼の鍵開け技能は25に固定される(これ以降の上昇手段はレベル上げだけである)

 

判定ごとにエピソードが重ねられる。それはダイスロールであってもいいし、自ら一行のエピソードを創りだしてもいい。

(もしもこの記述がポール・オースター「幽霊たち」や筒井康隆富豪刑事」で”語られない”エピソードの集積となったら素晴らしいな、と僕は思う)

 

フロアを乗り越えるごとにレベルが上昇する。

条件としては

1.新たな判定を行い、成功させる。

2.最もエピソードが少ないキャラクターである。

これは達成値のベースポイントとなる。

Dreaming of you

何してた?特別なことは何も。朝からずっとfishmansを聞きながらごろごろしていた。思い出したように古いゲームを引っ張り出して遊んだが、適当なところで飽きたんだ。分厚い教科書を引っ張って眺めたが、こんなしっかりした知識は別段必要ないな、と思った。

いや実際、何か新しいことを知りたいな、と思うんだが。ツイッター見ててもなんかみんな同じようなことばっかり言ってるし。新しい事件があったって、そうだ。そうだが。たしかにそうだが。

しかし実際、慣れてしまってないかね?別に映像がないからとか、報道が十分でもないからとか、そういう話でもなく、いろんな人がいろんなことを言ってる形で出来事が届くせいで、その現実自体は殆ど冗談みたいに感じられてしまわないか?

新しい知識がほしいなら、何か別なことをしようと思ったっていいはずだが、とりわけ身体活動が望ましいと思うが、実際俺はこのあたりを歩きまわっているしなあ。平地ばかりの町でな、新しい発見というのは殆どなかったりする。新しい発見…ねぇ。部屋を片付けたのがいけないのかもしれない。なんとなく整ってしまった。それは不幸なことだ。できるなら、もっと雑然としていて欲しいんだが。

役に立ちそうな本は大概ゴミなんだ。目の前には試験に受かるため役立つとして選ばれた問題集があるが、あれ試験終わってから一回も開いてないんだよな。幾つか漫画があって、本もあるんだが、頭の中で図式化してしまっているものが多い。

つまり内容が圧縮されて頭の中に入っているせいで、読み返したときの情報量ははじめて読んだ時よりもずっと少ないということだ。

本棚によって、ジェフリー・ユージェニデス半陰陽に関する小説と、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチのソビエト人へのインタビューと、セネカの手紙を引っ張り出した。まだ図式化できてない、読めていない本たちだ。

 

 

タイトルはThe Coralの楽曲より