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原因のない不安はあるか?

 原因のない不安はあるか、と言う話題が昨日議論になったので、簡単にまとめようと思う。

原因というものを、僕は解決可能な、行動によって改善できるものとして捉えた。
原因というのを字義通りに捉えれば、脳内で起きている複雑な神経伝達物質や、その受容体の作用として捉えることも出来る。どちらも原因であるというのはkitaさんのとった解釈だ。これについては僕が前者を暗黙の前提で語っていたので、議論が食い違ってしまった。

この時点で原因を二種類にわけることはできる。
a.具体的な心配事が不安を引き起こす場合
 借金があって不安だとか、試験が明日あるが、落ちるかもしれないので不安だとか、そういった具体的なものだ。
これに関しては解決できるものと、できないものがあるが、とにかくその問題は現実の問題だ。
b.不安という感情が、心配事なしに存在する場合
 <blockquote class="twitter-tweet" data-lang="ja"><p lang="ja" dir="ltr">以前いた業界で通帳に4000万溜め込んでた真面目なおじさんが経済的不安で鬱病になった<br>いつも金がない金がないと言っていた<br>おまえの通帳はなんだそれはと誰もが思っていた</p>&mdash; Nikaidou Moriyoshi (@captainjaguar) <a href="https://twitter.com/captainjaguar/status/836610836302999553">2017年2月28日</a></blockquote>
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 ピーター・ドラッカーの著作『傍観者の時代』によれば、フロイトは大学教授として豊かな診療報酬を手に入れていたにも関わらず、金銭的な不安にかられていたようだ。現実の問題とは無関係に不安の感情が生まれることもある。
医療における意志決定について書かれた、『考える医師』という本の中には、心配事の原因を探す、不安神経症の患者を例にとった、次のような記述がある。

不安はおそらく適者生存によって選ばれた一つの性格である。有史以前の先祖は危険を警戒するためにいくらかの不安が必要であった。現在の正常とはかけ離れているだろうが、恐怖で絶えず動けなくなるようなことなく、食料を得て生き延びるのに必要十分な用心深さと思い切りのよさを併せ持つ理想的なレベルがあったのだろう。しかし、これは無視できないほどの生物学的多様性の余地を残す。正常を定義する範囲は決まったものではない。統計に基づく「正常」を決めるときには、平均値から2SD(上位約2.5%と下位約2.5%)のところへ垂直に線引されることがある。しかし、私たちが知るように「病気」というラベル付けは文化的に決定されている。それは独断的で、変わり得るものである。不安のレベルがちょうど良い環境にいる人もいれば、あまりにも高すぎたり、あまりにも低すぎたりする人もいる。
  医師「…だからJason、あなたの問題に対する理由を探しても何の役にも立たないのかもしれません。ただあまりにも多くの不安を持って生まれたという以外に、理由はないのかもしれません。あなたがその症状を乗り越えていけるように手助けするのが私たちの仕事です。さて、私には幾つかの考えがあります…」

Chris Del Mar, Jenny Doust, Paul Glasziou『考える医師』 名郷直樹  吉村学 メディカルサイエンス社


 不安という問題を考える時、それが具体的な問題によって引き起こされ、具体的な対処によって解決できるものか、その人の生まれ持ったものなのかは、区別する必要がある。借金が不安の原因な人は、借金の返済を具体的に計画するべきか、自己破産を行うなどの対処を考えることによって解決できるし、明日の試験が不安ならば勉強して眠って、朝起きて試験を受ければ解決する。
 しかし心配事なしに存在する不安は、不安への対処法を学ぶ必要があり、原因を探すことはあまり役立つとはいえない。探求の末に、偽物の理由を見つけてしまった場合、泥沼にハマってしまうことだって考えられる。

 多分昨日の議論が泥沼になったのは、原因という言葉を、文字通りの原因と捉えるか、その感情を引き起こした現実の出来事として捉えるかの問題だったのだと思う。kitaさんは文字通りの原因として捉えており、僕と二階堂さんは現実の出来事として捉えていた。
 そこについて僕は昨日はっきりと言及していなかった。言葉が足りなかったと思うし、僕が余計な説明をして話をややこしくしたと思う。
<blockquote class="twitter-tweet" data-lang="ja"><p lang="ja" dir="ltr">これだよ。変な小理屈こねてっから幸せになれんのだ。人間は良い射精・良い食い物・良い睡眠をすれば殆どの悩みが消えるのだ。それを満たしてから悩め</p>&mdash; kita☆ユリハラム・コレクト (@kita19450815) <a href="https://twitter.com/kita19450815/status/836580710613803008">2017年2月28日</a></blockquote>
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 これは原因不明な不安の幾つかも解決するだろうし、原因が明らかな不安にも有効だと思う。
空腹で不安を感じるのは当然だし、栄養が偏った状況で不安が増すのも納得できる。睡眠不足も同様だ、極論で語る睡眠医学の中では、ティーンエイジャーの自殺について触れた以下の記述がある。

しかし事実として、この年代に自殺が急激に増えます。そして、ここにも睡眠が密接に関わっています。実際に睡眠時間と絶望感、希死念慮、自殺企図との関連が報告されています。

河合真『極論で語る睡眠医学』

 良い射精がどうかについてはソースはない(けどいかにも説明はつきそうだ。それを実験するべきかはまた別の話)

 そしてこれらは漠然とした不安についてもある程度有効だと思う。それに、一般的にティーンエイジャーが自分の不安の原因を考えた時に、きっと寝不足だからだろうなと思い至るのは、少し難しいと思う。寝不足でも身体は動く人が多いし、不安になりそうなことは沢山ある。

 でもそれが具体的な原因のある不安か、睡眠不足に起因する不安かを見極めるのは難しい。(睡眠不足は酔っ払いと似てる。酔っ払いがまだ酔ってないと千鳥足で主張しがちなように、寝不足の人も寝不足じゃない、寝不足のせいじゃないと思いがちだ。)だからkitaさんの言ってた良い睡眠・良い食事・良い射精は、不安への対処になるのだと思う。

 少なくともそういった自然な活動を試すことは、害にはなりづらい。

人的資本に対する投資は、不良債権となり得る

 人的資本への投資、もしくは自分への投資という時、人は殆どそれが儲かるものだと考えているフシがある。
少なくとも、何らかの利益が得られるはずだと。
しかし純然たる投資であれば、そこにはリスクが存在するわけだ。
金と時間を賭けたが、多大な借金を抱えるに至る可能性だって、金銭的な投資ならば存在する。
手に入れた資産が紙切れになってしまう可能性だってある。
だけど、人的資本への投資と言う時、人はそれをほぼ間違いなく利益が得られるものだと考えてしまう。
人的資本への投資に対する信仰は、教育に対する信仰と言っても良い。
それは学校に行き、学歴を積み重ね、知識を身につければ収入が高まるという考えだ。
これは明確には実証されていないようだ。相関関係はあるのだが、相関関係と因果関係は別物だ。そして専門教育みたいな期間が長く、バイアスの影響を排除できないものだと、収入との間に因果関係を見出すのは難しい。

 人的資本への投資を、文字通り投資と考えてみると、そこにリスクが存在しないのはおかしいとわかる。
有害な教育というのは存在する。学問をうまく消化出来ない人間もいる。
そもそもからしてデタラメであった骨相学のように咀嚼しようのない学問が存在する。
むしろ、食物と異なり、いつまでも頭に残っているが故に有害な可能性だってある。
教育というのは頭に入るから、一生残る資産だと言う人もいるが、一生残る負債にだってなり得るのだ。

ここでは、金銭的収入と学歴との関係に話を絞ろう。

それ以外の有益な面については、今回の話からは外す。

 リスクが存在する投資が、多くの人にリスクが存在しないと考えられている状況を、バブルという。
つまり、損をする可能性がそこそこある投資を、絶対に損はしない投資だと大勢の人が思い込むわけだ。
 バブル崩壊後、その資産の多くは大学教育に使われた。しかし大学教育の投資としての効用は、破綻していることが認識されつつあるように思う。
しかし様々な文章を読む限り、教育バブルの崩壊というふうに語られることは無いだ。

 僕が問題にしてるのは、何が損失を生み出す投資で、何が利益を生み出すという投資かという話ではない。
投資というアナロジーを使いながら、損失の可能性については語られなかったことを問題としている。

 大学教育の有用性を裏付ける2つの理論がある。一つは上記で述べた、人的投資としての教育だ。
そしてもう一つは、シグナリングだ。
シグナリングというのは、序列づけと言ってもいい。学歴によってその人の能力が市場で判定できるようになるということだ。
しかし、シグナリングのための学歴は高すぎる。シグナリングのためなら、センター試験の点数だけでいいはずなんだ。
高校生への就職面接でセンター試験の点数は使えないし、そもそも結果が開示されるのは、センター試験が終わった5ヶ月後くらいだ。
だけど、これをシグナルとして使うのは原理的には可能だ。勿論、高卒時点での学歴でシグナリングするという選択肢もある。
 しかし問題なのは、大学の教育期間は、シグナリングのためだけには長すぎるし、高すぎるということだ。

 教育は投資だろうか?人格の醸成や幅広い教養や専門知識を身につけるのも教育の重要な役割ではないか、と考える人もいるだろう。
勿論それらは重要な役割だが、投資としての役割が無用だと思われたならば、人の教育に対する支払いはもう少し渋くなった筈だ。
僕は教育によって損をすると言いたいわけではない。ときに損失を被る可能性があることを認識するべきだと言いたいのだ。

雑話

言葉が雑になっている。

ニュースに影響されて驚くほど陳腐な言葉を語る自分がいる。

いつの間にか主語がぼく”たち”になっている。

滅多に自分の文章を読み返さず、書きなおさない。

 

140文字は既に自動化されてしまった。その文字の中に言葉を収めることは、はじめはなかなかに難しいことだった。

今では造作もないことだ。慣れてしまったのだ。

 

文章を書くことは最初から難しかったわけじゃないけど、意味の通る文章を書くことは難しかった。なぜなら僕は意味以前の映像を頭にたっぷりと飼っていて、それを理解させようなんて思っていなかったからだ。

 

 社会性というのは少なからず、意味の通る事を言うことに関連する。

そして意味の通ることを言うには、既に意味の通っている言葉を使うのが一番簡単だ。

難解な語彙やささやかなレトリック、比喩される対象によって比喩する対象を示す手法は、日常会話では聞き流される。

そしてありふれた言葉が何故か非常に面白いことのように語られる。

favlogを読んでいた。やっぱりそうみたいだった。

詩が減ってるんだ。そんなこと気にするべきじゃないのかもしれないけど。

磨かれた言葉に囲まれて生きている事自体が可笑しいのかもしれない。

それは人生に何年かだけ与えられた期間なのかもしれない。

だけど特段詩人に定年があるわけではない。詩を作る器官も未だ痕跡にはなっていないのだろう。単純なルールを決めてみるべきだと思う。それが抗う数少ない方法なんだろう。

megaciv戦争のススメ

明日開催されるMegaciv大会に参加できないのが残念なので戦争のススメを書くことにした。
阿鼻叫喚が飛び交ってくれれば幸いである。

 戦争は不利益じゃない

 


megacivの戦争によって得られる利益は3つある。1つは都市を落とすことによって得られる国庫と交易カード、2つめは戦争によって得られる領土、そして3つめは、敵国を圧迫することによって連鎖的に戦争を引き起こすことができること、最後に、戦争はASTの進行を止められるほぼ唯一の手段である。
 戦争を仕掛ける側にとって最も有利なのは、いつ戦争するかを決定できることであり、故に外交は自律的でなければならない。他国を巻き込み、根回しをして強力を取り付け、仮想敵国には災害を流しこみ、”軍事”を筆頭とする軍事文明進歩を獲得した次のターンに攻撃を仕掛けるのが理想的な流れである。
 周到な準備をして、一度戦争が始まると、1Tでどちらが有利なのかははっきりとする。敵国の隣国が支援をするのは、このゲームの紛争システムからして難しい。基本的には奪い合いになるはずだ。そして後攻を取れるように人口を上手く調節しているのなら、漫然と内政していた他国はあなたに先手を取って攻めこむことはできない。

 

 

 戦争に向いた立地・戦争をしなければ勝てない立地

 


豊かな立地を持ってゲームを開始するエジプトのような国と、序盤から人口不足に悩まされるミノアなど、megacivには様々な文明が存在する。しかし大雑把に、土地の豊かさと隣接する国家の数によって戦争の必要性は変化する。自国が豊かであれば戦争をする必要はないが、貧しければ豊かな領土を獲得する必要がある。隣国が多い場合、戦争によって生じる力学を予測することは困難だが、隣国が少ない場合、後背地を十分に持っている場合は、戦争による領土拡大によって得られる利益が大きく、また挟撃を狙いやすい。

 いつ戦争をするか
これこそが戦争が自国を利するかどうかを決める決定的なポイントである。ゲーム開始してからしばらくはいたずらに戦争を仕掛ける必要はない。それよりは堅実な都市建設と人口増加のほうが重要である。戦争をするタイミングは、文明進歩を獲得できそうなタイミングだ。文明進歩こそが戦争を大きく変革する。他国との協力体制も確かに重要といえば重要なんだけど、みんななんだかんだ血を流さないので、あまりあてにしてはいけない。

 

 

 戦争を決定する技術

 


最重要 軍事…人口を減らさずに後攻を取れるので、相手が先に動くと思っていたら自分が先攻だった、のように不意をつくことができる。最高効率で人口を減らし、都市を陥落させ、自国に侵入してきた軍隊を破壊することができる。

重要 天文航法・機織…海軍は人口を一箇所に集中させる方法として最も早期に使える、コストの安い方法である。
その他 金属加工術・農業…この2つは守るときには有効だが、攻撃する際には単独ではあまり意味が無い。金属加工術は少ない人口で攻めこむ時にしか使えないし、農業は人口自体が増えてしまうので、後攻を取るのが難しくなる。
 君主政治・通貨…人口を調節できるので、先攻後攻を上手く決められる場合は意味がある。

 

 

もう少し長い解説も書いたのだけど、ポイントはひとまずこんな感じだ。

今度は西も東も大荒れになることを祈るぞ。
ちなみに都市を建てずに初期ラッシュするのは隣国に迷惑をかけて共倒れになるから絶対にやめようね。

知恵のボトルネック

 

ドラッグカルチャーはサイケデリックミュージックを生み出した。その傑作(例えばサージェント・ペパーズ・ロンリーハーツクラブバンド)は素面で聴いても素晴らしいと思えるものだ。ドラッグの悪影響が取りざたされるが、芸術に与えた利益を完全に否定することは難しい。少なくとも、新しい作品は生まれた。
スマートドラッグはどうだろうか。それによって頭の回転を加速した結果、素面の人間によっても理解できる優れた思索は生み出されたのだろうか。これを検証するのは難しい。その影響下で書いたと公言する人が少ないからだ。
思考の速度が加速しても、観測者がそれを理解できなければそれは意味不明なものとなる。いや別に、それはサイケデリックミュージックも同じことなのかもしれない。新しい技術の一般化と、ドラッグの広まりが合致しただけなのかも。その辺りを解きほぐすことは困難なのだけど。
加速した思考とは一体なんだろうか。ポストモダニストは人文学から科学・数学にまたがる所謂学際的な記述によってそれを演出したが、科学者たちによってその虚構は暴かれた。結局のところ魅力的な思考のボトルネックは、実証・検証であって、思考の加速は最早あまり有効ではないのではないか。何か新しい物事を示そうと思ったら、しっかりと検証することが必要になる。知識は十分な速度で拡散する。だけど効果の検証は、時間が絶対的に必要だ。世界は未だに検証すべき仮説で溢れている。しかし実証するための時間と費用はいつだって不足気味だ。それこそが問題になる。
仮説検証を加速することは可能だろうか?それは微妙だ。人体に対する薬剤の影響が理論で全て理解できるわけではないし、薬剤規制の発端になったジエチルグリコールは、薬ではなくそれを溶かす溶媒だった(製造者は、その甘みが子供向けの咳止めシロップにぴったりだと思ったのだ。その腎毒性を考慮することなしに)
ゆえに、検証すべき仮説を絞っていく必要が生まれる。それをいかにして絞るかが問題になるわけだ。
どの仮説が検証すべきかの基準について、はっきりしたものはわからない。しかし少なくとも、検証が可能であるものが選ばれるべきであり、仮説の敗北条件は始めに決められるべきなのだ。
仮説の敗北条件が明快であるなら次は何だろうか。
既存の文献によって言及されていないか、ということだろうか。しかしこれには罠があって、全く新しいことが明快な敗北条件をきたしていても、科学とみなされないことがある。ゆえに革新的な科学者たちは科学のお作法に則り、先駆者を想像する。しかしこれは妙な話で、先駆者のいない科学というのはいくらでも存在してもいいはずなのだ。先駆者の創造、という事象を知らずに科学を学んだ場合、その進歩に何か重大な問題点を与えるような気がする。
実際、魅力的な仮説を見つけたとして、先駆者がいないからその仮説を捨て去るというのはおかしな話ではないか。
おかしな人間の考えがおかしいかは、明確な敗北条件の設定によってかなりシャットアウトできるのではないか。

じゃあその他のスクリーニングは?それが科学だったかを検査する妥当な方法というのはあるだろうか。過去の任意の学説に当てはめて、それがどのくらい望みのある仮説かを判定するツールは存在するだろうか。

反証可能性は、それが科学なのかを判定する道具として、どのくらい有用なんだろうか。その感度と特異度はどれくらいなのだろう。

 

日記

 ちょっと風邪を引いたみたいなぼうっとした気分のうち幾らかは、最悪の天気と冷たい雨に濡れたせいと…おそらくはフィッシュマンズのせいだ。フィッシュマンズはいい。やる気がなくなったときはいつも聞いている。何も出来ない日を肯定してくれる音楽だ。無理にコーヒーだとか栄養ドリンクだとか飲んでみても仕方ない、そんな感じ。

 お互いに相手の言葉を触媒としてしか考えてない会話というのがあって、ディスコミュニケーションなんだけど不思議と居心地はよかったりする。はたからすれば何を話しているか全然わからないんだ。

 小説を書くのもこんな日だろう。少し考えていた話がある。

トロウルキンという架空の種族のことが僕はずっと気になっていた。グローランサという古いTRPGに出てくる。そのTRPGは異文化に対するリアリティを追求した結果、種族相互の理解が極めて難しい物になっている。だから、基本的にはプレイヤー種族というのは限られてしまうし、種族の違うプレイヤー同士のコミュニケーションは基本的に難しく、時に不可能である、ということらしい。トロウルキンはトロウルから生まれた子どもだ。

この世界のトロウルは極めて強力で、知性と力と魔力を持った種族なのだけど、神に呪われてしまったせいで、子孫を残すことが難しい。子どもの多くは、魔法が使えず、力も知性もトロウルには及ばない、トロウルキンとして生まれてくる。彼らは生殖能力を持たない。これに一捻りを加えて、トロウルという種族が肉食であったとしたら、ということを考えた。しかしそこで疑問が生まれる。肉食動物ならば、その人口を維持するためには膨大なエネルギーが必要とされる。ハーバーボッシュ法と品種改良によって極めて効率の高い農業が可能になったとしても、放牧動物によって街を作ることは難しそうだ。そして都市を作るのが不可能ならば、アイデアの流通は起こらず、知性とはかなり限定されたものになるんじゃないか、なんてことを考えていた。

 まあそれはそれとして、極めて高い知性を持ったとしよう。だとしても人間が脅威であることに違いはない。彼らは農耕によって膨大な人口を養うことが出来、そして日々科学技術を発展させていく。彼らが十分に知的ならば、その帰結を理解することができるはずだ。

 そして、それに対応する方法というのは短期的には可能だ。

トロウルキンを今までのような奴隷ではなく、教育ある兵士や労働者とするのだ。彼らは農耕が可能だ(という設定にした)ゆえにトロウルとトロウルキンの関係は、中世ヨーロッパにおける農奴と騎士の関係のようになるだろう、というところまで考えたんだ。

 そこでファンタジー世界の歴史設定について厳密に考えるとぐちゃぐちゃになってくる。あんまり厳密に考えるべきものでもないのかもしれん。物語を構想する上で生まれる矛盾って、どう対処するんだろうって、大槻ケンヂは後で考えるって考えていたな。まあ、無矛盾な世界ってつまんないし…。

 というか肝心なのはそこではなくて、その先にじゃあどうすっかなーみたいな話で特段エネルギーがないだけの話である。矛盾というのはあんまり考えても仕方ないものなんだ。その辺をえいやってやる能力は結構いろんなところで求められる。

 最近あんまりフィクションを読んでいない。なんだか物足りない感じがする。自己啓発っぽいモードは時々にしたほうが良くて、あれやりすぎると自分を殺していく。だからそういう言説言い続けられる人って一体何者なんだろうなって思う。

誤った最適化

 腕立て伏せを100回やるとする。

この時、十分な筋肉がついていないのに、腕立て伏せを100回やることが目的になった場合、楽な腕立て伏せをする人がいる。

 手の部分は殆ど動かず、腰だけが動いている、みっともなくて意味のない運動だけど本人は無自覚で、注意されても変わらない。

 こういうトレーニングをするなら、負荷を減らして、膝をついて腕立て伏せをしたり、回数を減らして、しっかりとしたフォームで行ったほうが良い。

 

 同じことは、数値目標を立てたあらゆる物事について言える。毎日10時間勉強しようとすると、10時間勉強できるような勉強をする。単純な漢字の書き取りとか、教科書を眺めるのに、頭をつかう必要はない。でも勉強の目的が、勉強時間を稼ぐこと以外なら、大して意味はない。

 

 読書もそうだ。1年で100冊本を読むのを目標にすると、読めるような本を読むか、読めるような読み方で読むことになる。既存の知識で理解できる本や、既存の知識の枠組みに当てはめた読み方だ。書評家は時折この罠にはまる。読書はすればするほど阿呆になると言われる理由の1つだ。

 

 目標が設定されると、簡単にずるをする。自然なことだ。

良心は自分の意志を保つための頼れる味方とは言えない。

 

 だから目標がずるされていると感じたら、目標から離れてみたほうがいい。一旦離れて、身体を動かして、もう一度条件設定を考える。具体的でいい。しばらくはずるをするまでの時間が稼げる。成果を評価してもいい。自己テストはかなり難しいし、物事は評価できるものばかりではない。

 いずれにせよ、目標設定と、狡知のいたちごっこはずっと続くんだろう。