I'm only sleeping

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情報の飽食

 悪癖があって、気づくと脳を使いすぎてしまう。

頭を空回りさせている。退屈で情報を大量に受け入れてしまう。ツイッターのリストとか、まとめサイトとかかオンラインゲームとか、大した情報じゃないのだけど、脳が満足するだけの量を一度に詰め込んでしまう。

大量のデータを埋め込むと頭に熱がうだるような感じは残る。頭の胃もたれだ。多い情報を減らそうとして我流の瞑想などしてみるのだけど、あんまり効果があるとも思えない。

 得られる情報は視覚がほとんどだ。その中でも記号。触覚は忘れ去られている。

情報は麻薬的な性質を持っている。人を誘惑する性質がある。良質な情報を大量に摂取することが良いとも思えない。問題は量だ。絞ることが必要なんだろう。

情報情報と言ったが、そこにはけもの道を歩くときに感じられるような多様な情報は消失している。何かを模倣するための一心不乱な観察も消失している。文字の知識、極めて限られた記号の組み合わせであって、その表面は平板である。

極めて限られた意味での情報を、自己増幅的なやり方で飽食するまで得ている。刺激の強い情報をただひたすらに集めるという意識もなく集めている。

 携帯電話なんて捨ててしまって、ただただ歩くだけの生活をしたい。そんな生活なんて飽きてしまうにきまってるのだけど。

広告のない場所に行きたい。断食みたいに、時々情報の刺激への感覚をリセットしてやる必要があるんだろう。何かをリセットするのはとても大事なんだろうな。習慣は身に着けられそうにない。

裏切りと陰謀のオンラインメガシヴィライゼーション

 1年近くにわたって続いたオンラインメガシヴ(以下、Ωcivと表記)が終わった。ようやく終わってくれたのだ。端的に言って、地獄だった。最初は楽しかったのだが、中盤は孤独で、後半は惰性であった。ゲーム終了時に各員の日記が表示されるのだが、盗み見を恐れて日記を消したプレイヤーが一人いたほか、大半のプレイヤーは半年ほど交易資源をメモするだけになっていたのが何よりの証明だろう。

 

 我が国はペルシャであった。ペルシャ湾の南北に広がる海洋国家であり、肥沃な土地に恵まれている。西はさらに豊かなバビロン(けんぼーさん)、北は痩せた土地にあるパルティア(にふさん、豊かな土地であるインダス(たっくまんさん)、南は巨大な砂漠によって阻まれているが、海沿いの土地でシヴァ(パチモンさん)と接している。このように多くの国と接しているペルシャは外交が重要であった。

 

 しかしペルシャは戦争がしたかった。

 

 そしてもう一つ、このΩcivには重大な本来のゲームとのルール変更があった。これが諸悪の根源であった。
 ”秘密交渉はこれを禁じない。個別交渉や、別室での同盟等の利用は完全に合法である”
本来は災害情報のやり取りは禁じられているのだが、勿論行われていた。ついでに言えば災害カードのカウンティングも行われていた。

 法治なきところに何が起こるかといえば、蛮族・無法者・野蛮人の跳梁跋扈である。

とはいえペルシャはゲーム開始時にはみんなと楽しく戦争がしたい以外の目的は持っていなかった。一つ先にある国であるマウリアやクシャーンは話が早いため、楽しく戦争ができると考えていた。

 

 まず拡張をする。最初は大したトラブルもなく進んだ。このゲームは戦争のゲームだと周辺国家に理解させるために戦争をしたり戦争のふりをしたり戦争のふりをするふりをしてバビロンを早期に脱落させようとしたりしたが、あまりうまくいかなかった。
 最初にまず、南端のヌビア(まっとりさん)から南4国同盟の提案があった。ヌビア・シヴァ・バビロン・ペルシャの四国でブロック経済を行い、災害を外に流し、資源効率を最大化し、戦線を整理しようという目論見である。僕はそういう人間同士が信じあったりするのがあまり好きではないので、当初から反対であったがとりあえずは賛成しておいた。これで戦争ができなくて残念だなという気持がありつつも、うまいこと裏切って適当に領土広げられないかなという思惑があった。

 このゲームは人口と都市が国力となり、災害対策となるので、人口と都市を養うための領土が即ち力となるという理解であった。そのためには少しでも歴史的領土から拡張して土地を得ることが必要になると考えていた。

 

 領土の拡張は軍事力が必要であり、軍事力とは赤ルートのことである。幸い赤ルートはバランスが良いし、一国が赤く染まると次々と隣国が赤く染まるため、先取ボーナスがあるようなものだ。

 数ターンしてマウリアおよびクシャーンから3国同盟をしないかと打診が来る。それぞれの国の中の人は話が早いために、僕は気に入っていた。三国同盟(すぐに愉悦部と命名された)を組んだ。僕はすぐに愉悦部の仲間に南4国同盟の存在をばらした。理由は片方の交易が時間がかかるからだ。交易フェイズで愉悦部はレベル3資源の確保その他非常に優れた交易結果をたたき出した。その資源をどうするかという話し合いがあり、我が国ペルシャが属領国家と金属加工を取得することで話がまとまった。しばらくは孤立するだろうことはわかっていたが、大した包囲網は組まれないだろうし、支援なんてろくすっぽでないだろうし、支援なしでは反抗の気概も一国一国きちんと殴ってやればなえてしまうだろうと考えていた。

 これが大きな誤算であった。
まず次のターンにパルティアが原理主義を取得した。バビロンは通貨・建築を取得した(故にバビロンは格好の後背地となった。しばらくの間は)シヴァもインダスも原理主義を獲得した。


そしてペルシャは外交相手をなくした(正確にはマウリア・クシャーンは交易相手としていたのだけれど、ここまでほかのプレイヤーが交易してくれないのは予想外であった)

 

 後にほかのプレイヤーに聞くところでは、交易市場はペルシャ抜きのものがあったということである。実際、ゲームを通じて全体チャットの交易市場に各員が手札を正直に伝えることは非常に稀であった。

 

 こちらとしても別個新たな陰謀を行うこともできたのだが、同盟チャットが増えると交易負荷が等比級数的に増大し、またプライベートで多忙となっていたので、それは行わなかった。

 

 ペルシャは計画通り戦争を遂行する。結局のところ軍事と金属加工の優位は大きく、こちらの手番で相手への嫌がらせを最大化すれば、かなり相手の行動を狭め、災害に脆弱にさせ、勝ち目を奪うことができる。

 考えていなかったのはその先だ。勝ち目を失ったプレイヤーは勝ち目を得るために反対側に進出すると思っていた。これが目論見違いであった。パルティアは一神論・原理主義・政治をペルシャに向けて撃ち続けた。技術での脱落が明らかになり、勝ち目が薄くなろうと最下位が決定しようと、最終ターンを除けば常に打ち続けていた。クシャーンが最先進国となってからもだ。シヴァも同様である。シヴァは最後まで世界的偉業・貿易帝国を所有し、爆発的な技術獲得能力を持つヌビアへの侵攻をほのめかしつつも、ほぼ一度も原理主義・一神論をヌビアに撃つことはなく、ペルシャのヌビアへの侵入を防ぎ続けた。
 バビロンはその点、高度軍事・軍事を取得しながら殆ど軍事的侵攻を行うことはなく、途中パルティアへの共同戦線を張るなど可能であった。徹底した攻撃のかいがあったというものである。ただ、共同戦線を張っても利益を得られる前に和平してしまうという問題があったが。
 インダスはもっとも理性的な隣国であった。話が通じるという意味で。

結果としてインダスへの軍事的侵攻はなかったと思う。彼が下位になってしまったのは残念だ。
 おそらくペルシャ周辺国への根回しがあったのだろう、クシャーンやマウリアはメキメキと力を伸ばしていった。軍事的脅威もなく、トレードもかなり自由にこなせるのだから当たり前である。マウリアに至っては属領国家及び天文航法を獲得し、自在な攻撃と収奪が可能になった。ペルシャも何度か侵略を受けた。しかし一神論・原理主義を獲得したのちも彼らへの包囲網はろくすっぽ組まれることはなかった。ペルシャは立地からして殆ど血を流すことができないので、彼らに対して攻撃するよう強いるためには軍事的手段によるしかなかったのだが、それがさらなるペルシャへの反撃を招いた。

シヴァとパルティアは全くペルシャへの反撃をあきらめなかった。国土が災害で荒廃しようと、他国からの軍事侵攻を受けようとペルシャ原理主義と一神論を打ち続けた。

 だからペルシャは彼らが諦めるまで進軍と収奪を続けることにした。


 ドラヴィダ(うのはなさん)はここまで言及しなかったが、かの国はあまり連携が取れず、何をするかもわからなかった。とにかくこちらの言うことを聞いてくれないことも確かだったので、非常に困った。マウリアへの戦争を行ってくれるのだが、単独でありペルシャとの共同戦線やインダスとの共同戦線はなかったために、あまり有効な手立てとはならなかった。
 マウリア・クシャーン・ヌビアとペルシャと接していなかった3か国が上位を独占した。
最終的な順位は
L1:13 L2:5 L3:3 AST75 都市7 計128 クシャーン①(赤・黄色、ペルシャと戦争せず、ペルシャの属領被害なし)
L1:11 L2:5 L3:4 AST70 都市5 計125 ヌビア②(オレンジコンプ、ペルシャと戦争せず、ペルシャの属領被害なし)
L1:13 L2:4 L3:3 AST75 都市6 計124 マウリア③(赤・黄色 ペルシャと戦争せず、ペルシャの属領被害なし)
L1:8  L2:4 L3:3 AST70 都市6 計114 ペルシャ
L1:6  L2:4 L3:2 AST70 都市7 計107 シヴァ⑤(隣国、何度も戦争をした。最後まで属領で搾り続けた)
L1:6  L2:3 L3:4 AST65 都市3 計107 バビロン⑥(隣国、何度も戦争をした、途中から赤くなって高度軍事と公共事業で強くなった)
L1:6  L2:5 L3:2 AST70 都市2 計105 ドラヴィダ⑦(暴政で20人口をペルシャにプレゼントしてくれた。マウリアとよく戦争していた)
L1:9  L2:3 L3:2 AST70 都市5 計105 インダス⑧(隣国、何度か侵略をした、気分によって属領を使ったり使わなかったりした)
L1:5  L2:2 L3:2 AST65 都市2 計90  パルティア⑨(隣国、何度も戦争をした。最後まで属領で搾り続けた)

 

見ていただくとはっきりするのだが、上位になっている国はすべてペルシャの隣国以外である。ペルシャは最後までうちと殴るな、反対側に逃げるんだ。そうやって領土を広げるのだと主張したし、和平のための話し合いや恐喝や教育的指導も辞さなかったのだが、彼らは怨念の塊となってペルシャを攻撃し続けた。

 

 誠に遺憾である。

 

追記 他プレイヤー視点のプレイレポをみるといろいろなことが見えてくるぞ!

この星の諸悪の根源その1マウリアプレイヤーのプレイレポだ。

t.co

この星で一番の被害者である中央国、インダスのプレイレポ

d.hatena.ne.jp

 

この星でいちばんわるいやつ 諸悪の根源その2 主催者 ふーけん(こえるん)さんのプレイレポ

 

coelun.at.webry.info

したいこと

小説を書きたい衝動は、ゲームを遊べないけど遊べないときに一番強かったと思う。それの代替手段として小説を書くことがあったのだと思う。閉塞感のある町で、いやそれなりに都会であったし、大学時代に地方都市で過ごしてからはそこがいかに恵まれた環境であったかを理解するのだけど、それはともかく、冒険するのは簡単なことではなかった。今だってそうだ。僕は新しく住んだ町のことを殆ど知らない。歩かないからだ。いつからだろう。どこかに歩くときに、帰りのことを気にするようになったには。理想的には、帰りのことを一つも気にしないで旅をしたい。億万長者になったら、億万長者であるがゆえにできないことだとは思うけれども、自由に歩いて、疲れ果てるまで歩いて、どこか好きな場所で寝泊まりしたりタクシーで家に帰るようなそんな生活がしたい。あるいは自由に野宿ができればいいのかもしれないけど、これは実際にはそんなに簡単なことじゃない。家というのは結構偉大な発明で、その半分の機能でも持ち運ぼうとすれば大変なことになる。そんなわけで僕は今日もノートパソコンの前に向かっている。本当の冒険が一体なんなのかといえば、行く先を知らないことだと思う。どこに向かうかわからない時が一番楽しいし、一番集中力が研ぎ澄まされる。だから観光というのは、非常にナンセンスだなって思う。観光するときは、行き先が決まってるわけでしょう。そして途中で寄る先も決まっているわけでしょう。行って帰るだけの移動の過程がとても楽しいのだと思う。中華鍋できちんと炒めた油でいっぱいの中華料理が食べたい。

都市と箴言

街を作りたかった。
街は一つの自然として存在する。
遺物となった都市計画者の遺物。
利便性はグロテスクさを生む。
その理由は簡単ではないだろうが
人の流れを意図されると、意図された人の流れに押し殺されてしまう。

永遠に未来永劫に発達しえない都市の話
再生への最良の道は、より早い衰退なのかもしれない。
都市に必要なのはある種の粗雑さと複雑さで。
つまり、私には都市をデザインする能力はないと認めることであって。
ヒューリスティックの反領域に足を踏み入れるべきではない。
そこでは一回性の罠に仕掛けられてしまい、偉大な経験を積めるが、偉大な経験は立派な講釈以外は何も生まないのだ。都市の非設計に必要なのは、覚悟であって。それを言えば法律だって試行錯誤の末のものなのだけど。
 長く生き延びた法律は、そうではない法律より重要な役割を果たすべきなのかもしれない。
焚火ではじける薪のようなノイズ。
どこかで決断することの意味は?
法則を見つけたとうそぶく人間は、法則をハックされることなんて考えもしない。
どのみち、僕は否定の道を行く。
決断しないこと。
職業によってゆがめられた倫理。

原因のない不安はあるか?

 原因のない不安はあるか、と言う話題が昨日議論になったので、簡単にまとめようと思う。

原因というものを、僕は解決可能な、行動によって改善できるものとして捉えた。
原因というのを字義通りに捉えれば、脳内で起きている複雑な神経伝達物質や、その受容体の作用として捉えることも出来る。どちらも原因であるというのはkitaさんのとった解釈だ。これについては僕が前者を暗黙の前提で語っていたので、議論が食い違ってしまった。

この時点で原因を二種類にわけることはできる。
a.具体的な心配事が不安を引き起こす場合
 借金があって不安だとか、試験が明日あるが、落ちるかもしれないので不安だとか、そういった具体的なものだ。
これに関しては解決できるものと、できないものがあるが、とにかくその問題は現実の問題だ。
b.不安という感情が、心配事なしに存在する場合
 <blockquote class="twitter-tweet" data-lang="ja"><p lang="ja" dir="ltr">以前いた業界で通帳に4000万溜め込んでた真面目なおじさんが経済的不安で鬱病になった<br>いつも金がない金がないと言っていた<br>おまえの通帳はなんだそれはと誰もが思っていた</p>&mdash; Nikaidou Moriyoshi (@captainjaguar) <a href="https://twitter.com/captainjaguar/status/836610836302999553">2017年2月28日</a></blockquote>
<script async src="//platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>

 ピーター・ドラッカーの著作『傍観者の時代』によれば、フロイトは大学教授として豊かな診療報酬を手に入れていたにも関わらず、金銭的な不安にかられていたようだ。現実の問題とは無関係に不安の感情が生まれることもある。
医療における意志決定について書かれた、『考える医師』という本の中には、心配事の原因を探す、不安神経症の患者を例にとった、次のような記述がある。

不安はおそらく適者生存によって選ばれた一つの性格である。有史以前の先祖は危険を警戒するためにいくらかの不安が必要であった。現在の正常とはかけ離れているだろうが、恐怖で絶えず動けなくなるようなことなく、食料を得て生き延びるのに必要十分な用心深さと思い切りのよさを併せ持つ理想的なレベルがあったのだろう。しかし、これは無視できないほどの生物学的多様性の余地を残す。正常を定義する範囲は決まったものではない。統計に基づく「正常」を決めるときには、平均値から2SD(上位約2.5%と下位約2.5%)のところへ垂直に線引されることがある。しかし、私たちが知るように「病気」というラベル付けは文化的に決定されている。それは独断的で、変わり得るものである。不安のレベルがちょうど良い環境にいる人もいれば、あまりにも高すぎたり、あまりにも低すぎたりする人もいる。
  医師「…だからJason、あなたの問題に対する理由を探しても何の役にも立たないのかもしれません。ただあまりにも多くの不安を持って生まれたという以外に、理由はないのかもしれません。あなたがその症状を乗り越えていけるように手助けするのが私たちの仕事です。さて、私には幾つかの考えがあります…」

Chris Del Mar, Jenny Doust, Paul Glasziou『考える医師』 名郷直樹  吉村学 メディカルサイエンス社


 不安という問題を考える時、それが具体的な問題によって引き起こされ、具体的な対処によって解決できるものか、その人の生まれ持ったものなのかは、区別する必要がある。借金が不安の原因な人は、借金の返済を具体的に計画するべきか、自己破産を行うなどの対処を考えることによって解決できるし、明日の試験が不安ならば勉強して眠って、朝起きて試験を受ければ解決する。
 しかし心配事なしに存在する不安は、不安への対処法を学ぶ必要があり、原因を探すことはあまり役立つとはいえない。探求の末に、偽物の理由を見つけてしまった場合、泥沼にハマってしまうことだって考えられる。

 多分昨日の議論が泥沼になったのは、原因という言葉を、文字通りの原因と捉えるか、その感情を引き起こした現実の出来事として捉えるかの問題だったのだと思う。kitaさんは文字通りの原因として捉えており、僕と二階堂さんは現実の出来事として捉えていた。
 そこについて僕は昨日はっきりと言及していなかった。言葉が足りなかったと思うし、僕が余計な説明をして話をややこしくしたと思う。
<blockquote class="twitter-tweet" data-lang="ja"><p lang="ja" dir="ltr">これだよ。変な小理屈こねてっから幸せになれんのだ。人間は良い射精・良い食い物・良い睡眠をすれば殆どの悩みが消えるのだ。それを満たしてから悩め</p>&mdash; kita☆ユリハラム・コレクト (@kita19450815) <a href="https://twitter.com/kita19450815/status/836580710613803008">2017年2月28日</a></blockquote>
<script async src="//platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>
 これは原因不明な不安の幾つかも解決するだろうし、原因が明らかな不安にも有効だと思う。
空腹で不安を感じるのは当然だし、栄養が偏った状況で不安が増すのも納得できる。睡眠不足も同様だ、極論で語る睡眠医学の中では、ティーンエイジャーの自殺について触れた以下の記述がある。

しかし事実として、この年代に自殺が急激に増えます。そして、ここにも睡眠が密接に関わっています。実際に睡眠時間と絶望感、希死念慮、自殺企図との関連が報告されています。

河合真『極論で語る睡眠医学』

 良い射精がどうかについてはソースはない(けどいかにも説明はつきそうだ。それを実験するべきかはまた別の話)

 そしてこれらは漠然とした不安についてもある程度有効だと思う。それに、一般的にティーンエイジャーが自分の不安の原因を考えた時に、きっと寝不足だからだろうなと思い至るのは、少し難しいと思う。寝不足でも身体は動く人が多いし、不安になりそうなことは沢山ある。

 でもそれが具体的な原因のある不安か、睡眠不足に起因する不安かを見極めるのは難しい。(睡眠不足は酔っ払いと似てる。酔っ払いがまだ酔ってないと千鳥足で主張しがちなように、寝不足の人も寝不足じゃない、寝不足のせいじゃないと思いがちだ。)だからkitaさんの言ってた良い睡眠・良い食事・良い射精は、不安への対処になるのだと思う。

 少なくともそういった自然な活動を試すことは、害にはなりづらい。

人的資本に対する投資は、不良債権となり得る

 人的資本への投資、もしくは自分への投資という時、人は殆どそれが儲かるものだと考えているフシがある。
少なくとも、何らかの利益が得られるはずだと。
しかし純然たる投資であれば、そこにはリスクが存在するわけだ。
金と時間を賭けたが、多大な借金を抱えるに至る可能性だって、金銭的な投資ならば存在する。
手に入れた資産が紙切れになってしまう可能性だってある。
だけど、人的資本への投資と言う時、人はそれをほぼ間違いなく利益が得られるものだと考えてしまう。
人的資本への投資に対する信仰は、教育に対する信仰と言っても良い。
それは学校に行き、学歴を積み重ね、知識を身につければ収入が高まるという考えだ。
これは明確には実証されていないようだ。相関関係はあるのだが、相関関係と因果関係は別物だ。そして専門教育みたいな期間が長く、バイアスの影響を排除できないものだと、収入との間に因果関係を見出すのは難しい。

 人的資本への投資を、文字通り投資と考えてみると、そこにリスクが存在しないのはおかしいとわかる。
有害な教育というのは存在する。学問をうまく消化出来ない人間もいる。
そもそもからしてデタラメであった骨相学のように咀嚼しようのない学問が存在する。
むしろ、食物と異なり、いつまでも頭に残っているが故に有害な可能性だってある。
教育というのは頭に入るから、一生残る資産だと言う人もいるが、一生残る負債にだってなり得るのだ。

ここでは、金銭的収入と学歴との関係に話を絞ろう。

それ以外の有益な面については、今回の話からは外す。

 リスクが存在する投資が、多くの人にリスクが存在しないと考えられている状況を、バブルという。
つまり、損をする可能性がそこそこある投資を、絶対に損はしない投資だと大勢の人が思い込むわけだ。
 バブル崩壊後、その資産の多くは大学教育に使われた。しかし大学教育の投資としての効用は、破綻していることが認識されつつあるように思う。
しかし様々な文章を読む限り、教育バブルの崩壊というふうに語られることは無いだ。

 僕が問題にしてるのは、何が損失を生み出す投資で、何が利益を生み出すという投資かという話ではない。
投資というアナロジーを使いながら、損失の可能性については語られなかったことを問題としている。

 大学教育の有用性を裏付ける2つの理論がある。一つは上記で述べた、人的投資としての教育だ。
そしてもう一つは、シグナリングだ。
シグナリングというのは、序列づけと言ってもいい。学歴によってその人の能力が市場で判定できるようになるということだ。
しかし、シグナリングのための学歴は高すぎる。シグナリングのためなら、センター試験の点数だけでいいはずなんだ。
高校生への就職面接でセンター試験の点数は使えないし、そもそも結果が開示されるのは、センター試験が終わった5ヶ月後くらいだ。
だけど、これをシグナルとして使うのは原理的には可能だ。勿論、高卒時点での学歴でシグナリングするという選択肢もある。
 しかし問題なのは、大学の教育期間は、シグナリングのためだけには長すぎるし、高すぎるということだ。

 教育は投資だろうか?人格の醸成や幅広い教養や専門知識を身につけるのも教育の重要な役割ではないか、と考える人もいるだろう。
勿論それらは重要な役割だが、投資としての役割が無用だと思われたならば、人の教育に対する支払いはもう少し渋くなった筈だ。
僕は教育によって損をすると言いたいわけではない。ときに損失を被る可能性があることを認識するべきだと言いたいのだ。

雑話

言葉が雑になっている。

ニュースに影響されて驚くほど陳腐な言葉を語る自分がいる。

いつの間にか主語がぼく”たち”になっている。

滅多に自分の文章を読み返さず、書きなおさない。

 

140文字は既に自動化されてしまった。その文字の中に言葉を収めることは、はじめはなかなかに難しいことだった。

今では造作もないことだ。慣れてしまったのだ。

 

文章を書くことは最初から難しかったわけじゃないけど、意味の通る文章を書くことは難しかった。なぜなら僕は意味以前の映像を頭にたっぷりと飼っていて、それを理解させようなんて思っていなかったからだ。

 

 社会性というのは少なからず、意味の通る事を言うことに関連する。

そして意味の通ることを言うには、既に意味の通っている言葉を使うのが一番簡単だ。

難解な語彙やささやかなレトリック、比喩される対象によって比喩する対象を示す手法は、日常会話では聞き流される。

そしてありふれた言葉が何故か非常に面白いことのように語られる。

favlogを読んでいた。やっぱりそうみたいだった。

詩が減ってるんだ。そんなこと気にするべきじゃないのかもしれないけど。

磨かれた言葉に囲まれて生きている事自体が可笑しいのかもしれない。

それは人生に何年かだけ与えられた期間なのかもしれない。

だけど特段詩人に定年があるわけではない。詩を作る器官も未だ痕跡にはなっていないのだろう。単純なルールを決めてみるべきだと思う。それが抗う数少ない方法なんだろう。